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常不軽の行としての選挙運動

佐藤清文

Seibun Satow

2009年9月3日


無断転載禁
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すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


「またいやしくも木である以上、どんな木にも、それぞれの効用がある、メルクールを刻みうる木だけが木ではない」。

石橋湛山『天分の認識』


 選挙になると、たいていの立候補者は有権者に頭を下げる。道端に立ってひたすらお辞儀したり、土下座したり、涙ながらに「助けてください」と訴えたり、自慢ののどを披露したり、自転車に乗ったりと千差万別である。もっとも、下げながら、舌をペロっと出しているお調子者も少なくない。

 もちろん、中には頭を下げない候補者もいる。有権者に「下々の皆さん」と語りかけたり、時間がないからとさっさと帰ったりする選挙に自信がある人も確かにいる。

 頭を下げるにしろ、下げないにしろ、立候補者が何のために頭を下げるのかを自答したことがあるのかはなはだ疑問である。

 自民党第2代総裁にして、第55代内閣総理大臣に選出された石橋湛山は、この問いに関して明確な考えを持っている。

 湛山は、エッセイ『常不軽の行』(1952)において、立候補して選挙を始めたばかりの頃、だれかれかまわず頭を下げ、投票を請うのがまるで「コジキ」のようで割り切れない気がしていたと述懐する。選挙に立候補したのは自分の利益のためではなく、国や国民のためであり、わが身を犠牲にする覚悟で臨んでいるのに、なぜ「物ごいのまね」をいしなければならないのか承服できない。しかし、それも法華経に説かれた常不軽菩薩の物語を思い起こすことでなくなったと告げている。

 昔、あるひとりの貧しい僧がいたが、彼は経を読まず、ただ人のいるところに行ってはこう唱えて歩いて回るだけである。「わたくしは、あえて、あなたがたを軽んじません、なぜというに、あなたがたは、まさに仏になる人々であるから」。人々は彼をお頭がおかしいと石を投げつけたり、棒切れで殴ったりしたけれども、決して屈せず、「わたくしは、あえて、あなたがたを軽んじません、なぜというに、あなたがたは、まさに仏になる人々であるから」と言い続けている。人々は彼をいつの頃からか「常不軽」と呼ぶようになる。

 この物語は、湛山によると、「常不軽は、すべての人にそなわる仏性を礼拝して、その仏性の自覚を各人に促さんと努めた」ことを説いている。

 湛山の実父湛誓は杉田日布とも言い、身延山久遠寺81世法主であり、また、育ての父望月日顕も身延山久遠寺83世法主である。このような日蓮宗の家庭環境で育った湛山も。1952年に立正大学学長に就任している。

 立候補者が選挙で有権者に頭を下げるのは、この常不軽の行をすることである。だとすれば、苦などない。「私が今選挙のため、すべての人に頭を下げて歩くのも、またこの常不軽の行であろう。われわれは、それらの人々が持つ一票の尊貴なるゆえんを、広く自覚してもらうためである」。「一票の尊貴なるゆえん」を知ってもらうために、立候補者は有権者に頭を下げる。そういう選挙運動には、有権者も立候補者に頭を下げずにはいられない。

〈了〉

参考文献
石橋湛山、『石橋湛山著作集4改造は心から』、東洋経済新報社、1995年