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連載 佐藤清文コラム 第37回

政治家と失言

佐藤清文

Seibun Satow

2007年7月27日


無断転載禁
本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


「汝自身を知れ」。

デルポイの神託


 安倍晋三内閣はおそらく後世から「失言内閣」と呼ばれることでしょう。政治家による失言は昔からありました。政治家の失言を集めた書籍やサイトに目を通すと、その知識・品性・認識の低さに唖然としてしまうほどです。

 中でも、中曽根康弘内閣や森喜朗内閣は首相自らがよく舌禍事件を起こしていました。それらと比べても、短期間であるにもかかわらず、数もさることながら、政府部内のさまざまな政治家から失言が飛び出す安倍内閣は尋常ではありません。

 あまりに多すぎて、200724日に民法のテレビ番組内で、小池百合子国家安全保障問題担当補佐官が、いわゆる「産む機械」発言をめぐって、「柳沢さんだけじゃなくて、イスラムの国よりも日本における男性の女性に対する見方は遅れてるんじゃないか」と述べたことが、失言とさえ扱われなかったくらいです。それどころか、安倍首相は、この発言をした人物を防衛大臣に任命してしまいました。

 戦後史を振り返ってみると、聞き手という点から政治家の失言には大きく国会内型と国会外型とに二分できます。

 国会内型は政治家同士による国会答弁などで生まれる失言です。これは二種類に分かれます。一つは受け答えをしているうちにヒートアップして冷静さを失ってやらかしてしまう感情タイプです。

 この代表は吉田茂首相の「バカヤロー」発言でしょう。もう一つはデリケートな問題をめぐって答えているうちに舌を滑らす不用意タイプです。池田勇人大蔵大臣による「貧乏人は麦を食え」発言などがその好例です。ただ、いずれも苦し紛れの失言と言えます。

 小泉純一郎前首相の失言は国会内型のカテゴリーに含まれます。けれども、彼の場合、不用意タイプの状況で、感情を爆発させますから、感情タイプの側面もあります。フラストレーションの溜まる場面で彼はそうしますから、一種の爽快感のようなカタルシスの効果を視聴者にもたらします。

 カタルシスはギリシア語に由来し、浄化や排泄という意味を持っています。小泉前首相の失言は苦しんでいた便秘が解消された瞬間に似ているというわけです。このカタルシスの効果が小泉政権の支持率の高さの一因でしょう。

 しかし、感情タイプの失言は、本来、捨てゼリフですので、それを言ってしまったら、議論が続きません。コミュニケーションの拒否であって、ユーモアでもって切り返すのではなく、「ああ面倒くさい。これでいいだろう」という姿勢です。小泉前首相は誠実に答弁する気がないように見受けられ、失言と言うよりも、失礼でした。

 一方、国会外型失言は、演説や講演、紙・電波媒体でのインタビュー、記者会見などのように聞き手が政治家ではない場で生じるカテゴリーです。これも二種類に分かれます。一つは話の流れの中で発せられる無意図タイプです。

 全体を見ても、脈絡上この表現を使わなければならない必然性は大抵なく、話者のセンスの悪さだけが印象として残るだけです。麻生太郎外務大臣の「アルツハイマー」発言はこの部類に属しています。もう一つは何らかの政治的な意図を秘めたタイプで、しばしば問題表現が冒頭で使われます。

 代表は石原慎太郎東京都知事の失言です。この意図タイプは、それ自体を問題化したいために、引き起こされる失言ですが、概して、その目論見自身が浅はかです。いずれにせよ、話者が手に入れた知識や情報をひけらかさずにはいられない性分ということも少なくなく、国会外型は軽はずみな失言と言えるでしょう。

 近年の政治家による失言は国会外型の無意図タイプに区分されるのが圧倒的です。とは言うものの、心にもないことを口にしたというのではなく、その政治家の本音や考え方、理解が失言として現われていると見て間違いありません。

 失言が問題となると、その政治家は弁解を始めます。しかし、それは失言以上に見苦しいものとなるものです。「真意が伝わっていない」や「マスコミが歪曲した」、「そんなこと言っていない」と伝達・報道に責任を転嫁し、実質的な謝罪をしないまま、発言を撤回するというのがお決まりです。

 けれども、この釈明自身にその政治家が失言を起こしてしまう原因が顕在化しているのです。失言の多くは内容以前に、場や時期、立場をわきまえていないことから生じています。問われているのは、第一には、その政治家の「真意」ではありません。

 「この時期に、こういう場で、こうした立場の人が、なんでこんなことを言うかねえ
?」と人々は首を傾げているのであって、言ってみれば、社会性が問題となっているのです。社会性は関係性から物事を見る姿勢です。弁解がみっともなくなるのは、関係性に関する認識がまるでなく、自分のことだけに話が終始してしまうからです。

 1982年、テレビ朝日系列放映の『あまから問答』で「なくせ暴力団、覚醒剤、交通事故」というテーマの回があり、ゲストとして呼ばれた当時の世耕政隆国家公安委員長は次のような発言をしました。

「ヒロポンは戦前は薬局で売っており、ぼくらの学生時代には試験の前などによく飲んでいた。気持ちがいいし、能率があがる」。

 いくら戦前には覚醒剤の一種であるヒロポンが合法だったとしても、国家公安委員長ともあろう立場の人が反覚醒剤キャンペーンの番組に出て、「気持ちがいいし、能率があがる」はないでしょう。彼の社会性に疑問符がついてもやむをえません。

 さすがに、テレビ朝日も世耕委員長に録り直しを求めました。「覚醒剤の恐怖を強調したいための例として述べたまでだ」と釈明しましたが、およそ考え得る限り、場と立場からこれほど最悪の発言はなく、「覚醒剤の恐怖を強調したいための例」どころか、使用を助長さえしている響きさえあります。

 時々、ワイドショーのコメンテーターの中で、失言した政治家を擁護する人がいます。その説明を聞いてみると、時期や場、立場をわきまえていないという観点が欠落しているのに気がつきます。失言をどう受けとめるかはその人の社会性が現われるものなのです。

 一般の有権者でも、「よくぞ言ってくれた」や「本当のことを言っただけ」といった感想を漏らす人がいますが、それも同様です。自分の社会性を確かめてみるべきでしょう。

 毒舌で知られる政治家ほど舌禍事件を起こしています。失言は、多くの場合、飲酒運転同様、常習です。現役で言うと、石原慎太郎都知事、森喜朗元首相、麻生太郎外相、中川昭一自民党政調会長、安倍晋三首相などが代表的な失言政治家です。

 一線を退いた政治家の中で近いところで言えば、渡辺美智雄氏や中曽根康弘氏、藤尾正行氏あたりが思い浮かびます。飲酒運転者に、一般成人以上の高いアルコール依存症(アルコホリック)の比率が見られるように、失言政治家には、とにかくしゃべっていなければ気がすまないワードホリックの傾向があるかもしれません。

 政治家は一般の耳目を集めなくてはなりませんから、財界のトップ以上に、メディア等で話す機会は多くならざるを得ません。企業にとっては、社長が誰かよりも自社の製品やサービスが知られることが大切ですが、政治家は選挙において自らが投票対象ですので、表でしゃべることは重要な活動の一つです。失言政治家は、一般的に、わかりやすい言葉で、面白みを加えて、政治的意見を述べる人たちです。

 しかし、彼らの笑いには、ユーモアではなく、思いつきと思いこみに満ち溢れ、蔑視、偏見、早飲み込みなど自分に対する過信があります。

 毒舌を売り物にするコメディアンも大勢いますが、彼らに話術で最も大切なことは何かと質問したら、内容以上に「間(タイミング)」と答えることでしょう。同じことを口にしても、面白い人と面白くない人がいるものです。福田赳夫元首相は、実にタイミングよく「狂乱物価」や「昭和元禄」などといった世相をうまく捉えたフレーズを生み出しました。政治におけるわかりやすさは単に平易な言葉で語ることではなく、こうした適格な言葉で本質を伝えられることを指します。

 間をうまくとれないのに、客をうけさせようとすると、結局、刺激的な言葉に頼ってしまうのです。それが行き着くところはタブー破りです。しかし、そうなると、タブー破りに自分の存在意義を覚えてしまいます。タブーを破れば破るほど、自分が特別なのだという意識につながり、攻撃的・暴力的にならざるをえなくなるのです。

 いわゆるタカ派の政治家に失言が多く見られるのは、このタブー破りに溺れてしまうからです。政治的意図に基づいた失言はタブー破りが狙われています。しかし、それは次第にタブーを破ること自体が目的となってしまいます。80年代の失言にはこういった観があります。そのうちに、たんに自分の思いつきや思い込みを粗雑で短絡的、稚拙に放言しているだけになります。

 西村眞吾議員の「核武装」発言や森元首相の失言録が示している通り、
90年代半ばくらいからこの傾向が顕著です。それは、言いたいことは話すけれど、言いたくないことには口をつぐむというコミュニケーションの拒絶へ辿り着いてしまうのです。失言連発のわりに、世間が必要と思っていることは説明しない安倍内閣はこの状態にあると言えます。

 失言は自分が見えていない政治家から生まれるものです。こうした失言政治家は関係性から物事を考える認識が欠けていますから、本来、政治的リーダーになる資質というのはありません。現代社会は、国の内外共に、関係の網の目がはりめぐらされて成立しているのです。

 失言内閣の後任の首相候補として「アルツハイマー」発言の麻生外相の名前が挙がっています。しかし、彼は、ポスト安倍どころか、今すぐ閣僚を辞任して然るべきなのです。彼は外務大臣という立場がいかなるものかをまったく理解しておらず、その職にふさわしくありません。

 なぜなら、かつて国会で、アーウーと言わずに、はっきりと答弁できないのかと野党議員から問われて、大平正芳首相は、確か、次のような感じで答えていたのですから。

「アー…私は、ウー…外務大臣が長かったものですから、アー…外務大臣の発言というのは、ウー…ワシントンも聞いております。アー…モスコーも聞いております。ウー…北京も聞いておるのでありまするから、アー…下手に言えないのであります。ウー…そこで、『アー…』と言いながら考えて、『ウー…』と言いながら文章を練っているのであります」。

〈了〉

参考文献

新井俊三、『大平正芳 文人宰相』、春秋社、1982

失言王認定委員会、『大失言』、情報センター出版局、2000

田中六助、『大平正芳の人と政治』、朝日ソノラマ、1981

田中六助、『再び大平正芳の人と政治』、朝日ソノラマ、1981

土屋繁、『日本を決めた政治家の名言・妄言・失言』、角川書店、2001

牧野武文、『失言から見た政治家の品格』、インフォレスト、2007