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連載 佐藤清文コラム 第24回

立身出世と滅私奉公

佐藤清文
Seibun Satow

2006年11月7日


無断転載禁
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すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


「学ぶこと以外は、何事にも飽きがくる」

プブリウス・ウェルギリウス・マロ

 受験勉強の優先による必修科目の修得単位不足が発覚して以来、受験という本音と必修科目という建前の相克が問われています。教育再生会議が開催されていることもあり、当然、教育をめぐる本質的な議論へと発展するかと思われました。けれども、再生会議はまったく意義ある議論もせず、この問題は政治決着が図られようとしています。

 倫理学において、事実は必ずしも道徳の規範となり得ないという前提があります。人類のほとんどが虫を殺したことがあるとしても、その事実をもって虫の殺生が道徳的に肯定されるわけではないのです。学校は道徳を考える場でもあるのに、事実によってこの問題を決着させるというのもいささか疑問がわくところでしょう。

 現在、国会で、教育基本法の改定を中心に審議されています。政府は戦後教育を総括し、復古主義的な理念を盛り込もうとしています。しかし、少なくとも、教育における本音と建前の二重性は戦前から見られる傾向です。公共心を尊ぶ人間の育成のために、戦後教育を否定し、戦前の教育の復活を唱えるとしたら、それはたんに歴史を知らないだけにすぎません。

 戦前の教育の基本目標は「学問は身を立てるの財本」(太政官布告第214号)、すなわち「立身出世」です。それは、近代以前の身分・家柄にかかわらず、学問を収めれば、社会で身を立てられるという理念です。この立身出世主義に基づく人材育成により日本は近代化されていきました。

 国家を担う官僚育成を目的に、1886年、帝国大学令が公布されます。大学を創立しても、名ばかりで、近代的な学問を教育するカリキュラムも人材も完備しているとは言えませんでした。

 そこで、政府は入学希望者に厳しい学力選抜を課し、システムの不備を補うことにしたのです。高等教育機関としての内実がありませんでしたから、合格=卒業というのが実態で、早くも翌年には学生を卒業させています。その後
6年間、卒業生は無試験で官僚になることができました。受験競争はこうして始まったのです。

 伝統的な共同体から個人を解放し、私利を肯定したものの、それが社会的な公共性と必ずしも結びついてはいませんでした。政府は、そのため、明らかに近代の立憲主義と相反する教育勅語を導入し、立身出世と公共性の齟齬を埋めようと試みています。しかし、立身出世主義のイデオロギーの正当性が根本的に揺らぐことはありませんでした。

 1920年頃に義務教育の完全就学が達成され、1930年には中等学校進学率も20%を超えました。受験熱は、人々の間で、年々上がり、その弊害も顕著になっていきました。何よりも学歴こそがものをいう社会でしたから、受験予備の勉強は激しくなる一方だったのです。こうした教育の大衆化は、従来の個人による立身出世から経済・社会構造の実情に即した人材の配置へと教育行政の方針の変更を迫るものでした。

 1927年、文部省は受験熱の冷却と学力偏重の人物選抜を改めるため、中学校受験を学科試験から内申書・人物考査・身体検査へと変えました。けれども、学歴社会という現状が厳然としてある以上、受験競争を抑制することはできません。しかも、学力選抜と違い、新しい入試方法は主観性が入り込みやすいと受験生を持つ親たちから猛反発されたのです。文部省は、わずか2年後に、筆記試験の復活を余儀なくされました。

 なお、戦前の教育史料・文献に「個性」という概念を見かけることがありますが、これは今と意味が違います。当時は内面性や人格などではなく、「学力別」として用いられていたのです。

 1930年代の世界恐慌期になると、従来の教育が困窮する民衆の要求に応えられなくなります。政府は教育改革を進め始めます。しかし、その内容は極端に精神主義に偏重しており、教育勅語を強調した「滅私奉公」に基づく教育でしかなかったのです。

 教育ジャーナリストの志垣寛は、各地の国民学校の実践を取材し、『全国国民学校新建設参観記』の中で、「日本的なるものの復活によって殆ど一色にぬりつぶされていて日本に比較的乏しかった方面、とくに科学的方面への開拓が頗る幼稚である」と書いています。立身出世という近代イデオロギーを滅私奉公という前近代によって抑制しようとしたわけですが、近代を生きている以上、この反動は根本的な解決にはなりません。むしろ、建前と本音の今まで以上の乖離を招いただけです。

 この反動化は教育全体から近代性を排除する動きの一環でした。1935年、美濃部達吉の天皇機関説が問題視されます。明治以降、日本では高等教育と初等中等教育の間には断絶がありました。大学においては近代的な学問を研究しながら、小中学校では反近代的な教育勅語を尊ぶように指導していたのです。天皇機関説の危険思想化は学問の世界も皇国化されていくことを意味しました。大学でさえそうだったのですから、小中学校の状況は推して知るべしです。

 日中戦争の長期化に伴う産業発展と経済統制は人々に経済的・社会的意識の均質化をもたらしました。みんなが同じになればなるほど、それを出し抜けば、競争に勝てるのです。そのため、1938年中学校での集団勤労作業や1943年の学徒出陣により、学校制度が事実上破綻していたにもかかわらず、進学者は増加しています。中等学校への進学率は1930年に20.4%でしたが、1940年になると、26.9%に上昇しています。

 しかも、文部省と内務省も、戦時だからこそ、中等学校の拡充が必要だと考えていました。戦時産業の拡充には、中堅技術者の養成が急務でしたし、また、銃後の国民生活の安定に学校教育は欠かせません。

 けれども、20年代同様、次第に、入試の準備を始める時期も早まり、受験競争が激化し、その弊害も顕著になってきました。1939年、筆記試験に代わり、再び、人物考査が採用されました。

 「皇国民としての徳性の考査による『滅私奉公』が入試において強要されることになる。しかし、この改革は、建て前の教育=滅私奉公と私利的観念=立身出世を使いわける二重性を生み出すことでもあった」(森川輝紀「経済恐慌と戦時下の教育」
)。受験競争は、戦時下という滅私奉公が全盛の時代にあっても、抑制されることはなかったのです。改革の結果、できあがったのは裏表のある人間を育成する教育制度だったのです。

 当時の中学受験の模様を伝える記録は数多くあるのですが、ここでは森毅京都大学名誉教授の『自由を生きる』の中の回想を紹介しましょう。森教授は1928年生まれで、ちょうどこの人物考査が導入された年に大阪の北野中学(現北野高校)を受験しています。

 六年生になると、本当は禁止されていたのだろうが、放課後に進学者が講堂に集められて、算数と国語のプリント学習。たちまち要領をおぼえたが、それよりも、これがぼくの唯一の男女共学体験であったことが大きい。

 ところが夏休みを過ぎて受験科目がわかると絶望的。内申に面接に体育。

 さしあたり大急ぎで優等生にならねばならぬ。家庭教師というほどでもないが、級友と三人で、成績コンサルタントみたいな先生の世話になった。絵はもっと小ぎれいにとか、作文は子どもらしくとか、たわいもないものだが、時局に合わせて軍国主義のアジテーションを作文に入れたら、苦笑いされて「これは、やりすぎ。もう少しおさえて」と言われたのにはまいった。

 友人と数人で、神戸まで模擬試験を受けにも行った。兵庫県は学科試験があったらしく、ついでに算数と国語も受けて、こちらは抜群だったが役にたたぬ。

 面接問題集みたいなものも出て、秋には放課後にその学習。妙な年に当たったものだなあ。

 しかし、神風が吹いた。北野中の試験当日、流行していた風邪で熱を出して、休養室から体育の受験をしたのだ。熱がなくても フニャフニャしていたのに、熱でフラフラと勘ちがいしてもらった。

 面接では、「今年はどういう年か」「紀元は二千六百年、めでたい年です」「なぜめでたいか」「こんなに長く続いた国はありません」と、模範答案とおりに進行。

 ところが、「二千六百年より二千六百一年がもっとめでたいことになるが」という奇妙な反論。あ、模範答案ばかりで試験官はうんざりしているなと思ったのがかしこいところ。「そりゃ、これからどんどんめでたくなりますが、いつもめでたがっているわけにもいかぬので、ちょっきりのときにお祝いするよりないでしょ」と言ったら受けた。

 日本社会について語る際、しばしば本音と建前があるとされます、けれども、どんな社会にも、本音と建前はあります。アメリカだろうと、ドイツだろうと、ニュージーランドだろうとあります。この問題において本音と建前がいかにして生まれるのかを問わなければ、本質的な議論につながりません。本音と建前という二項対立を口にするだけで、それ以上の思考に取り組まないのは不勉強だと言わざるを得ません。

 日本教育における本音と建前は構造的欠陥から生じているのです。立身出世に基づく学歴社会という現状があるにもかかわらず、受験競争を合理的思考に立脚して改善することなく、反動的な精神主義によって抑えこもうとした点です。

 現在の教育基本法改定論議はまったく戦前の経験が生かされていません。新たな教育基本法は、結局、本音と建前を今まで以上に乖離させ、裏表のある人間を育てる教育制度を作り上げるだけです。みんなが政治家や官僚になるわけではないので、この手の人間がこれまでより増えても、困りものです。

 それどころか、戦前より事態は深刻です。政府を含めた教育行政の関係者は反動的な国家主義を教育の基本とするだけでなく、競争を助長させようとしているからです。

 東京都足立区教育委員会は2007年度予算案で、都と区が実施している学力テストの成績に応じて、同区立の72の小学校と37の中学校に追加的に配分している「特色づくり予算」の額に差をつける方針を固めたのです。同区は04年の都の学力テスト結果が、23区で最下位でしたから、その向上策と考えたのでしょう。区教委教育政策課は「学校の意欲を高め、区全体の学力向上が期待できる。全国でも例がないやり方ではないか」と言っています。

 競争のもたらす達成感や優越感は学び自身とは直接関係ありません。昨今の研究から、競争が学力向上や公共性の育成などに寄与せず、協同学習がそれに対し効果的であることが実証されています。これを知らないで、教育を考えることはあまりにもお粗末です。

 競争は学びの場にはお呼びではないのです。今、教育に求められている改革は競争から協同への学びの制度的変更です。基本法改定の審議や教育再生会議の議論において、それに言及されていないのは、彼らが学びから教育を捉えていないからにほかならないのです。「無知であると、目を向くような事柄さえ目に入らない」(メナンドロス)。

 中世のアラブのムスリムは「知識を求めよ、中国までも」と学びの重要さを説きました。もちろん、中国の向こうには日本があるのですが、そこに触れていなかったのは、地理的な発見のせいと言うよりも、現在の状況を見る限り、当然なのかもしれません。〈了〉

参考文献

辻本雅史編、『教育の社会文化史』、放送大学教育振興会、2004

森毅、『自由を生きる』、東京新聞出版局、1999