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連載 佐藤清文コラム 第23回

ソフトパワーとコモンウェルス
〜拡散の時代〜


その2


佐藤清文
Seibun Satow

2006年10月16日



2 情報としてのソフト・パワー

 コリン・パウエル前合衆国国務長官は、2003年、スイスのダボスで開催された世界経済フォーラムにおいて、なぜアメリカはソフト・パワーではなく、ハード・パワーを重視しているのかというジョージ・ケアリー元カンタベリー大主教の質問に答え、ソフト・パワーの例としてマーシャル・プランを挙げている。

 マーシャル・プランは、戦後世界の中で自国の覇権を確立し、ソ連による社会主義圏の拡大を食いとめるというアメリカの世界戦略に基づいている。戦争で疲弊したヨーロッパ経済を迅速に再建するために、130億ドルにのぼる多額の資金援助を合衆国は西欧に実施する。資金の大半はイギリス、フランス、イタリア、西ドイツの順で供与され、1952年の援助終了時、西欧の工業生産は大戦前水準の35%増を示している。

 特に、共産主義からの防波堤と位置づけられた西ドイツは独立と再軍備を達成して、奇跡的な経済成長を迎える。この成功により、アメリカは、西側陣営の中で、スーパー・パワーと認知され、
50年代は「パックス・アメリカーナ」の別名で呼ばれるようになる。

 言うまでもなく、マーシャル・プランが、純粋にソフト・パワー的だったかと言えば、必ずしもそうではない。それにはアメリカの農工業生産物の市場を確保できるという思惑もある。資金援助の70%はアメリカからの商品購入に用いられ、大半が余剰農産物である。また、四九年に冷戦の緊張が高まると、合衆国は援助資金は工業再建よりも軍事支出を優先的に振り分けている。

 マーシャル・プランは、確かに、西欧諸国にとって、魅力的であり、ソフト・パワーの成功例と認められる。マーシャル・プランを自分の側につくことへのアメリカからの「報酬」と見るべきではない。むしろ、その巨額な援助が何を世界に知らしメタのかを考えるべきである。

 ジョルジュ・バタイユは、『呪われた部分(
La Part Maudite)』(1949)において、マーシャル・プランを「普遍的経済学」によって意味づけしている。彼はマーシャル・プランを「消費」と把握し、それを読み解く。

 利潤追及が「神の見えざる手」によって自動的に均衡するという古典派経済学に対して、戦後の世界資本主義が合衆国の一方的な消費によって機能していると指摘している。「ところでかくも大きな不均衡は現代世界においていかなる意味を有するか? 合衆国はこの問題に直面した。利潤の原則が、すなわち盲滅法にそれを維持することが必要だった。

 だがその場合には必然的に訪れる状況の諸結果を耐え忍ばねばならない(世界の残余の部分を憎しみに委ねるアメリカの運命を想像することはたやすい)。しからずんば資本主義世界がその上に築かれている法則を放棄せねばならない。無料で商品を譲り渡す必要がある。すなわち労働の産物を与えることが必要だ」。

 この太っ腹な消費は、ある意味で、ソースタイン・ブンデ・ヴェブレンが『有閑階級の理論(The Theory of the Leisure Class)(1899)の中で「衒示的消費(conspicuous consumption)」と命名した見せびらかすための消費として働く。この変人経済学者は「衒示的消費」を好意的に取り扱っていないけれども、その波及効果は十分に認識している。マーシャル・プランが真に欧州にもたらしたのは金でも商品でもない。それは情報である。マーシャル・プランはこの情報によりソフト・パワーとして機能したのである。

 森毅京都大学名誉教授は、『蓄財の逆説』において、金が情報であると次のように述べている。

 政治家のヤミ献金による蓄財が、今を「お金の時代」と印象づけているようだ。でも「お金」というのは、考えてみれば奇妙なものだ。

 大阪では、なんでも「なんぼ」と言って「お金」で計量しているようだが、それはむしろ、「お金」をポーカーのチップのように相対化しているのだ、という説がある。たしかに、お金をためたところで、使わなきゃ仕方がない。ためこむだけで使い道がなければ、怪獣のカードのようなものだ。

 昔は、政治家が家財を使いはたしたと言われる。彼らがすべて、私財を投げうって世につくした、とまでは信じない。金を使うことが、政治家としての信用に役にたったからでもあろう。

 今では、逆になって、金のとれることが、政治家の信用にならぬでもない。ヤミ献金のリストなどが発表されると、献金額の大きい政治家が「大物」ということになるから、下のほうの政治家はくやしがっているのではなかろうか。それはおそらく、金が入らぬからではなく、大物と認めてもらえぬことをくやしがっているのだろう。

 すべてが「お金」で計量されるように言われるのは、いろんなものを計量するのに、このチップが使われるからではないか。たとえば、芸人が芸をするのも、学者が研究をするのも、自分で芸や研究を楽しみ、それを喜んでくれる人がいるからだ。

 それなら、ノーギャラでいいかというと、そうでもあるまい。有名なタレγトはギャラが上がってもほとんど税金であほらしいなどと言うが、それでギャラを下げようとは絶対に言うまい。「お金」を手に入れることよりむしろ、ギャラの高いことが芸人の格を表示しているからだ。

 「お金」というと、物を手に入れるための「スーパー物」のように考えられているが、ぼくはあやしいと思っている。売買というのは、物とお金の交換と考えられているが、むしろ交換行動そのものが意味を持っているのではないか。「お金の使用」ということ自体が一種の情報行動としてある。

 同じ値段であっても、ときには高くついても、人はたいてい感じのよい広を選ぶ。物を買うだけでなく、感じを買っているからだ。「社会主義国」でサービスが悪かったのは、売手が「ブルジョア的」サービスを否定したなどという階級性よりはむしろ、彼らが売買を「唯物的」に考えすぎたのだ。

 「お金」というのは、物としてのエネルギー的性絡と重なって、情報としてのエントロピー的性格を持っている。そして、エントロピーはつねに、すり減っていくものだ。お金かて、なんぼのもんや。

 たぶん、成金が金をつかいたがるのに、昔からの金持ちは金づかいが荒くないというのは、音からの信用があって金をつかう必要がないからだろう。むしろ、たいして金を使わなくとも、金持ちそうに見えるところが強みで、金づかいの荒いのをはしたなく思ったりするが、それは彼らが質素だからではない。金をつかって、あらたに獲得した信用を見せびらかそうとする、成金こそあわれ。このあたり、「お金」を自分を偉く見せるための情報と考えたほうが、わかりよい。

 さて、政治家だが、たくさん金をつかうというのは、自分を偉く見せるための情報になるのだろう。派聞に金をまくなんてのは直接的だが、ヤクザがベンツに乗るのだって、金をつかうことで自分が大物になりたいからで、政治家だって子分に大物と思ってほしくて金をまわしただけのこと。

 ところが、ヤクザだと上納金がある。政治家だと自分の財産があればいいが、今どきそれほどの大金持ちなら道楽の政治なんかやらない。当然に、ヤミ献金を必要とするだろう。

 ここでおもしろいことは、金をつかうのも、金をもらうのも、大物になるための情報としては等価値であることだ。たくさん金がもらえることは、たくさん金をつかえること、あるいはそれ以上に、大物としての価値になる。

 ところが、情報というものには、私有することの有利さと同時に、流通しなければ無意味という性格がある。物なら、ためればためただけのことはあるが、情報というのはためこむだけではだめだ。お金をもらうにしても、お金を使うにしても、それがヤミでは情報価値があまりない。

 昔から、お金をためこんだ老人という物語があるが、あれはそのあたりの逆説を表現していよう。老人になると、いくらお金があっても、それをつかう道があまりなくなる。にもかかわらず、つかうあてもなく、ひたすらためこむ。

 日本では、政治家はたいてい老人になってしまうのだが、ヤミ献金だからチップの多さをいばることもできず、ヤミ蓄財だから、金持ちになったとチップを撒いていばることもできない。

 当節のことだから、ャミでないと何十億だの何百億だのになるまいが、ヤミだから情報として役にたたない。それで結局は、おとぎばなしの欲ばりじいさんみたいになってしまうのが、かわいそう。

 そんな多額の金に縁はないが、ふだん使っている金だって、情報であることに変わりはない。紙に書いた信用の情報にすぎない。カード社会になるとますます、その傾向は強まろう。

 お金の物ばなれを嘆く人も多いが、もともとお金を物としか考えなかったのが錯覚だったので、情報であることを考えないわけにいくまい。経済学というのは、物にとりつかれすぎているような気がする。

 力とエネルギーとかは物であるが、情報はエントロピーだから、違った発想で考えねばならぬのではないか。もっとも経済学でエントロピーを考えるときは、それまで物あっかいしたがる傾向があるが。

 蓄財というものの逆説を反映している、当節の政治家さんたち。世紀末にふさわしく、なかなかの光景として、ちょっと笑える。

 少々長い引用になったが、政治的消費=情報の意味を理解できただけでなく、森教授の拡散していく文体と意見に「魅力」を感じていただけただろう。

 魅力刃物ではない。ソフト・パワーは魅力の力だとしても、それを誘発するには情報が欠かせない。しかも、「情報というものには、私有することの有利さと同時に、流通しなければ無意味という性格がある。物なら、ためればためただけのことはあるが、情報というのはためこむだけではだめだ」。

 マーシャル・プランは、大盤振舞という政治的消費によって、情報をヨーロッパに流通させたのであり、その結果、西欧はアメリカとの連携を強化している。

 逆に、マーシャル・プランを拒否した「社会主義国」は売買を「唯物的」に考えすぎた結果、経済が破綻する。情報を付加していない商品・サービスは魅力を醸し出せない。人々にとっての欲しいものは壁の向こう側にある。東側の権力者たちは情報の重要性を十分に承知している。

 だからこそ、彼らは魅力ある西側の情報を管理・統制するべく工夫を凝らしている。それはハード・パワーがソフト・パワーに本質的に敵わないという証拠でもある。けれども、ヨシフ・スターリンの時代には、村に電気が通っただけで農民はありがたがったものだが、ミハエル・ゴルバチョフが共産党書記長に就任した頃は、
24時間の衛星放送が始まっている。情報が体制を破壊することは時間の問題である。

 東側諸国も、マーシャル・プランに対抗するため、経済相互援助会議(Council for Mutual Economic Assistance: COMECON)を結び、一時は非社会主義国のフィンランドやメキシコ等もオブザーバー参加させるまで盛況を示すが、それも長くは続かない。

 おまけに、ソ連はお互いに社会主義を掲げるユーゴスラビアやアルバニア、中国とも仲たがいを始め、中国はアメリカと接近する。東欧諸国の多くは、チェコスロバキアやハンガリーの悲劇が物語っている通り、ソ連とソフト・パワーではなく、ハード・パワーでつながっていたにすぎない。「東欧の春」が到来し、ソ連を含めた東欧諸国では、次々に、体制が打倒されていく。生まれ変わった旧東側諸国は
EUへの加盟を目標とし、すでに多くがそれを達成している。

                    その2 終わり、つづく