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連載 佐藤清文コラム 第十九回

革新と保守

佐藤清文
Seibun Satow

2006年9月12日



「新しいものとは、忘れられていたものにほかならない」。
ローズ・ベルタン

 戦後の日本政治を語る際に用いられてきた「革新」と「保守」という対立軸が、古びた印象を与えるようになってから、久しくなります。

 御厨貴東京大学教授は、『「保守」の終わり』において、革新と保守という政治的概念の歴史を検討・分析した上で、それが有効ではなくなったと次のように述べています。

 いずれにせよ、二十一世紀を迎えてこれまで連綿と続いてきた「保守」の終わりの時を迎えた。小泉政権ははからずも「改革」の担い手となったが、この政権の象徴如何にかかわらず、「革新」に次いで「保守」が終わり、新たな言語象徴が生み出される過程に入ったと言えよう。

 確かに、東西冷戦構造の崩壊と共に革新は失墜しました。しかし、革新の衰退により、保守も存在意義を失ってしまったのです。

 革新と保守の対抗軸が崩壊した後、感情に訴えるのはナショナリズムやジンゴイズムが伸張しました。小泉純一郎首相は国民の情緒を扇動し、革新や保守に代わり、「改革」と「守旧」ないし「抵抗」を使っていました。

 これが政治的言説においてシンボルとなりうるかどうかははなはだ疑問で、「新たな言語象徴」が必要であることは間違いありません、「扇動政治家の多くは、民衆を愛することなく、民衆におもねった」(ウィリアム・シェークスピア『コリオレーナス』)。

 にもかかわらず、安倍晋三官房長官は自らの政治的立場を「開かれた保守主義」と呼んでいます。それが空疎であるのはもちろん、政治的なセンスの悪さをも有権者に見せつけています。

 革新と保守に代わる「新たな言語象徴」が必要であるとしても、それには体系的・歴史的な考察が欠かせません。深く吟味せず、思いこみと思いつきでキャッチフレーズをつくると、こういう見識のないものになってしまうのです。

 それは、今度の自民党の総裁選の立候補者の顔つきが社長ではなく、課長を思い起こさせてしまうように、今の日本政治のさびしい現状をよく表わしているのでしょう。

 保守主義を明確に定義することは困難です。と言うのも、代表的な保守主義者エドマンド・バークの『フランス革命の省察』が示している通り、それがフランス革命の理念「自由・平等・友愛」に対する対抗勢力だからです。

 近代政治思想の本流はその理念に基づく自由主義と社会主義であり、保守主義はそれを批判することで自己規定する受動的な政治思想です。

 自由主義なら「自由」と「平等」、社会主義なら「平等」と「友愛」とシンボルがあるのに対し、保守主義にはそれがありません。

 その一方で、理念が弱いため、現実に即応するには適しています。もっとも、矛盾に満ち、体系性は乏しく、それを「思想」と呼べるかどうかははなはだ疑問です。保守主義は現状依存のアンチテーゼのイデオロギーにすぎません。

 保守主義は敵を攻撃して、アイデンティティを確認します。社会主義の影響力が低下した後、保守主義は自由主義に攻撃を集中させ、情念を扇動する狭量で排他的なナショナリズムやジンゴイズムに帰着しています。

 「国を滅ぼす最も確実な方法は、扇動政治家に権力を渡すことだ」(ハリカルナッソスのディニュシオス『古代ローマ』)。

 保守主義を自由主義や社会主義に依存しない明確なアイデンティティを持ったアクティヴな思想に構築しようとする試みがありますけれども、無理があります。理念性が脆弱であるからこそ、現実に柔軟に対応できるのであって、それを理念化しようとしてしまえば、たんなる反動となってしまうのです。

 日本でも、保守は革新の後に生まれ、革新の対抗シンボルとして自己規定してきました。しかし、それにはイギリスと違う理由があります。

 戦前、政治的言説において保守はほとんど使われていません。保守には、何か斬新なものに向かって時代が流れ、それに異議を申し立てるという響きがあります。近代日本は明治維新によって成立している以上、「保守」を掲げれば、幕藩体制への回帰と取られかねないからです。

 「革新」が政治的言説上に登場したのは大正7、8年からです。それは第一次世界大戦後であると同時に、大衆社会が出現する黄金の20年代の前夜に当たります。革新には古い時代を打破し、来るべき社会を構築するという意味があったのです。大正デモクラシーの時期でもありますから、革新は民主主義や自由主義、社会主義などの近代政治思想の色彩を帯びるようになります。

 しかし、1930年代に入ると、意味合いが変わります。全体主義化していく中、左右を問わず、革新の自称を競い合うようになります。日中戦争を正当化するイデオロギーを考案した昭和研究会や近代の超克参加者たちが「革新的知識人」と見なされ、満州国の経済統制に関与し、企画院を舞台に国家総動員体制を推進した岸信介、奥村喜和男、星野直樹、迫水久常などの官僚が「革新官僚」と呼ばれたように、革新は全体主義のシンボルとなるのです。

 終戦直後、革新は全体主義への関与から、その使用が敬遠されます。けれども、新しい社会が到来するという時代風潮にあって、保守もお呼びではありません。

 革新と保守が政治的言説におけるシンボルとなるのは、55年体制の成立からです。革新は社会党や共産党、保守は自民党のシンボルと見なされます。

 ただ、この二項対立でも、保守はあくまで革新の対抗勢力です。と言うのも、自民党の中にも、革新に分類できるような勢力が存在したからです。自民党第二代の総裁石橋湛山は大正デモクラシーのジャーナリストであり、宇都宮徳馬の主張は「革新」以上に「革新」的でしたし、三木武夫が「革新保守」を自認していました。

 そもそも、保守派の政治家にしろ、官僚にしろ、その多くは旧制高校時代にマルクス主義の洗礼を受けています。元マルクス・ボーイズはその体系性・歴史性を基盤にして政策立案をしていました。保守は非革新と考えるほかないのです。

 戦後の革新のアイデンティティは明瞭です。それは大正デモクラシーの系譜上にある政治思想・活動にほかなりません。大正デモクラシーは近代日本における最初の本格的政治思想であり、肯定的であれ、否定的であれ、その後の政治思想は大正デモクラシーの注釈だと言って過言ではありません。

 戦後を代表する政治学者として丸山眞男が挙げられます。彼は大正デモクラシーの再考を行い、自らの理論を構築しています。既存の左派政党に不満を覚える新左翼は革新を自称せず、吉本隆明に影響を受け、丸山に批判的でしたが、それは彼が「革新」にふさわしかったからです。また、保革の対立が終焉した今日、丸山の再検討が進んでいるのも、新たな革新系の思想をつくりあげようとしているためでしょう。

 大正デモクラシーの再検討を通じて、近代日本の政治思想が活性化してきました。その分、これまで、大正デモクラシーの後継者の人気が落ちると、しばしば、近代の超克が持ち上げられてきました。

 近代の超克は、中村光夫が指摘するように、「近代」自体ではなく、大正デモクラシーの克服を意味していたにすぎません。大正デモクラシーは民族自決を唱えたのに対し、近代の超克は東亜新秩序によって日中戦争を正当化しようとしました。しかし、政治思想としては脆弱であり、大正デモクラシーを超えるものではありません。

 9・11から5年が経ちます。「自由・平等・友愛」が課題であることに変わりはありませんが、9・11以降の国際社会における理念を挙げるとすれば、「普遍・多様・平和」でしょう。この三つのシンボルに立脚した「共生」を国際社会は模索しているのです。

 「新たな言語象徴」はここから生まれるのかもしれません。「未来の出来事は暗闇が隠している」(テオグニス)。

〈了〉