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連載 佐藤清文コラム 第十三回

二つの国民と貧民墓地

佐藤清文
Seibun Satow

2006年6月16日



「病気や悲しみも人に移るが、笑いと上機嫌ほど移りやすいものもこの世にないから、物事は美しく正しく立派に調整されているものだ」。

     チャールズ・ディケンズ『クリスマス・キャロル』

 近頃、貧富の格差が拡大している日本社会に対し、「格差社会」という流行語が用いられています。経済にギャンブル性が高くなれば、貧富の格差は拡大するのは必然的です。

 ギャンブルでは、勝者と敗者しかいません。引き分けはないのです。

 アンドレイ・ニコラエヴィチ・コルモゴロフが切り開いた
20世紀の確率論を持ち出すまでもなく、そのギャンブルは金に余裕のある方が有利です。

 金持ちは少々負けてもゲームを続けられますが、貧乏人は負けられません。

 余裕がないため、勝ち続けるしかないのです。このようにギャンブル性の高い社会では、貧富の格差が広がり、それが固定化される可能性が大きくなります。

 19世紀半ばの英国においても、産業革命に基づく資本主義の発達の過程で、富める階級と貧しき階級の間の溝が広がり、その状況に関する流行語が生まれました。

 それが「二つの国民
(The Two Nations)」です。

 「二つの国民」は英国の作家ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli)の小説『シビル、あるいは二つの国民(Sybil or, The Two Nations,)』(1845)に由来します。

 この本の中で、彼は英国が上流階級と下流階級の「二つの国民」に分裂している現状を非難し、上流階級が率先して社会改良に乗り出さなければならないと説いています。

 経済に対し政治介入を行い、この状況を緩和する必要性を述べたディズレーリは、当時、後に保守党と呼ばれるトーリー党の国会議員で、党内の会派「青年イングランド党」のリーダーです。

 自身の支持基盤を固めるために、労働者階級や中産階級に向けて社会改革を進めながらも、君主制などの伝統的体制を擁護する姿勢をとっていました。

 こうしたディズレーリの政治は、エドマンド・バーク以来の保守主義を修正した「温情主義(Paternalism.)」であり、現在に至るまで保守主義の政治手法の原型です。

 ディズレーリは首相として
1867年第二次選挙法改正に踏みきり、保守党の支持層を拡大します。彼は相対主義や自由主義、平等主義という民衆の価値観には反対し、宗教や古典教養、家族制度など伝統的な価値観を擁護しています。

 けれども、支配基盤を確固たるものにするために、民衆の要求に一部温情を示すのです。民衆は自分自身にとって必ずしも利益にならないにもかかわらず、彼を支持し、新たなピラミッド秩序の出現を後になって思い知ります。

 ディズレーリの修正点は、従来の保守主義が世襲貴族制に固執したのに対し、資本主義における階層を肯定したことです。

 既存の保守主義の源泉は英国の政治家エドマンド・バーク(Edmund Burke)です。代表作『フランス革命の省察(Reflections on the Revolution in France)(1790)での彼の主張を要約すると、それは反フランス革命になります。

 名誉革命を支持し、アメリカの独立も擁護していますが、彼には功利主義と社会契約説に基づく自由・平等・博愛
(友愛)の理念には我慢がなりません。

 自由で平等な個人が博愛の精神を持って社会契約を結んで国家を形成するなどというのは、彼にしてみれば、抽象的な妄想でしかないのです。

 国家はキリスト教と結びついているのであって、宗教は「偉大な偏見」であり、それが過去と未来との連続性の基盤になると主張したのです。その法体系は、神の死によって制定するのではなく、歴史的に蓄積されてきたコモン・ローを尊重すべきだと彼は言います。

 さらに、富は余暇をもたらし、それによって優秀な人材が育成されるから、そうしたノーブレス・オブリージュによる貴族制に基づく代議制が維持されるべきであり、普通選挙などもってのほかだというのが彼の持論です。

 これは反動と言うよりも、当時としては、現状の肯定にすぎません。

 ディズレーリは、むしろ、普通選挙を推し進めます。これは矛盾のようにも思えます。けれども、保守主義は啓蒙主義のアンチテーゼとして始まっています。体系性が弱い反作用のイデオロギーですから、矛盾があるのも当然です。

 保守主義は革命や共産主義など敵との緊張関係があって、存在できます。対抗する敵によって自己規定しているのです。敵がなくなってしまったなら、自分が存在するために、敵を捏造しなくてはならなくなります。敵と戦っている姿を見せることで、民衆の支持が得られるのです。

 保守主義は矛盾に拘らず、現実に臨機応変に対処できるという利点はあります。しかし、それはあくまで敵が教条主義に陥ってしまったときに、意義があるだけです。保守主義は現状に依存するイデオロギーにすぎません。

 その一方で、ディズレーリの「二つの国民」には、バーク以来の保守主義が明確に見られます。バークは、上位の階級に属する者は、革命に訴えてしまう民衆の不満を臨海に達する前に察知し、率先してよりよい社会へと改良すべきだと語っています。「二つの国民」もこうしたノーブレス・オブリージュ流の政治観を受け継いでいます。

 ※注 (フランス) noblesse oblige ノブレスオブリージュ

  • 身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観。
  • 高い地位や身分に伴う義務。ヨーロッパ社会で、貴族など高い身分の者にはそれに相応した重い責任・義務があるとする考え方。
  • もとはフランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」の意。

 しかし、当時の英国で最も人気のあった作家チャールズ・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens)はディズレーリの「二つの国民」論を認めませんでした。ノーブレス・オブリージュ流の政治認識の前提自体をディケンズはミステリー仕立ての長編小説『荒涼館(Bleak House,)』(1852-53)において痛烈に批判します。

 ディケンズは、この小説の主要な場所の一つとしてトム・オール・アローンズを描いています。ここはロンドンの最底辺の人々が住む地区で、社会問題が凝縮した場所です。

 トム・オール・アローンズには貧民墓地があり、ディケンズは、第
11章で、ここに埋められたものは「朽ちた中で復活し、多くの病める人々の枕元に復讐の幽霊となって現われる」と記しています。

 これは、『コリント人への手紙一』
154243節の「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれたときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」の捩りです。

 貧民墓地をめぐる貧困や犯罪などといった問題は取り組まれなければ、階級の上下を問わず、英国社会全体を破滅に導くとディケンズは警告しているのです。

 ノーブレス・オブリージュ流の政治などというのは、現代社会がいかなる構造をしているかをまったく理解していないアナクロニズムにすぎないのです。

 さらに、ディケンズはトム・オール・アローンズがこのようなロンドン最悪の場所になった原因が英国の司法制度にあると糾弾します。この一帯をめぐって、かつて大法官府で訴訟が起こされたのですが、長期に亘って審議が延々と繰り返されている間に、スラムと化してしまったのです。

 当時、大法官府訴訟が長期化するというのはよく知られた問題であり、『荒涼館』における中心的なテーマの一つです。英国の法体系は成文憲法がなく、法令や判例が蓄積されたコモン・ローが中心ですが、それを補うエクイティと呼ばれる衡平法も使われていました。それを扱うのが大法官府であり、大きな権限を持った官僚組織です。

 14世紀に入った頃から、コモン・ローでは救済されなかった者から国王に対して出された直接の請願を処理する大法官裁判所が併置され、衡平法裁判所としての役割を果たすようになりました。

 
15世紀にイングランド議会が上下両院に分かれると、上院の貴族院の議長を兼務するようになります。次第に、大法官の権限が肥大化していき、権限は内閣・行政・司法にも及び、その解体を通じて英国の三権が確立してきたと言っても過言ではありません。

 コモン・ローとの整合性を確保するため、極めて複雑化し、おまけに、書類主義が採用され、おびただしい量の文書を作成しなければなりませんでしたから、裁判は遅滞混乱が当たり前でした。ディケンズは出口の見えない長期裁判をロンドンの霧に譬えています。

 さすがに、司法改革の声に押されて、ディズレーリが政権を担当する1873年、裁判所法を制定し、大法官府は解体されます。高等法院と貴族院に権限が分割され、貴族院が最高裁判所を構成しました。貴族院議長である大法官がその長官を兼務し、治安判事以下の司法官の人事権を握ることになります。ちなみに、大法官府が完全に廃止されたのは2003年のことで、現在その後継組織は憲法事項省です。

 裁判所・議会担当の新聞記者だったディケンズの『荒涼館』は政界、大法官訴訟にトム・オール・アローンズの三つの世界に大別され、それらが欲望とスキャンダルを通じて交錯します。それぞれ孤立しているわけではないのです。

 社会派の文豪ディケンズは政治・経済といった社会の構造全体から問題を把握しているのに対し、保守主義の政治家ディズレーリの言説は表層的です。制度自身に切り込むディケンズの貧民墓地に比べて、ディズレーリの「二つの国民」は才気に溢れてはいても、あまりにも底が浅いのです。

 ディズレーリやディケンズの小説は社会小説に含まれます。1830年代にチャーチスト運動と呼ばれる労働者運動が始まり、40年代には飢饉が頻発し、それを背景に、「工業小説(Industrial Novel)」や「イギリスの現状小説(Condition-of-England Novel)」などの社会小説が沸き起こります。

 けれども、社会小説は、
1860年以降、特定のジャンルとしては消滅していきました。資本主義社会の風景が定着するにつれ、それは中心的な問題ではなく、一般的な社会描写として扱われるようになったのです。経済における大英帝国の絶対的優位の終焉を意味します。フランスやベルギー、ドイツ、合衆国が産業革命を達成し、経済力をつけていくと同時に、資本主義のもたらす社会問題も拡散するのです。

 現在の「格差社会」論議は、小泉純一郎首相の後継者と見なされている政治家にしろ、それを批判する野党の政治家にしろ、150年以上前の「二つの国民」から遠く離れていません。彼らは温情主義者にすぎないのです。貧民墓地の認識を理解できていません。新たな政治哲学を提示しなければならないのに、こんな状態ではそれも叶わないでしょう。

 その上、ノーブレス・オブリージュ流の政治は、外交面で、帝国主義=拡大主義に邁進していきます。それはジョゼフ・ラドヤード・キプリングが「白人の重荷」として正当化します。未開や野蛮な土地を文明化するのは白人の「重荷」であり、その責務を果たさなければならないというわけです。

 大演説をすることで知られる自由党のウィリアム・エーワルト・グラッドストンが「小イギリス主義(Little Englandism)」を主張したのに対し、ディズレーリは「大イギリス主義(Large Englandism)」を掲げます。保守主義=大イギリス主義対自由主義=小イギリス主義という真に明快な対決です。ディズレーリは海外領土や植民地の獲得に積極的に乗り出しています。

 この二人はヴィクトリア時代を代表する政治家ですが、好対照です。ディズレーリは最初、急進派、次にトーリーから立候補したものの、4回連続落選しています。筆の力を生かし、名を売り、ようやく当選したのです。一方、グラッドストンはすんなりトーリーの下院議員に当選しましたが、むしろ、保守的でした。

 しかし、グラッドストンはロバート・ビール内閣の閣僚になってからリベラル派に転じます。
1846年の穀物法をめぐって、1993年の日本の自民党よろしく、グラッドストンがリベラル派に徹して党から離れたのに対し、選挙に強くなかったディズレーリは保守派に接近して党に残ります。その後、グラッドストンが欧州でも著名な自由主義政治家になっていき、逆に、ディズレーリは国内での人気を上げるのです。

 保守主義は敵を求めるために、外交でも、基本的に拡大主義=大国主義となります。温情主義をとりながら、小国主義を口にするとしたら、それは保守主義者お得意の方便にすぎません。外交と内政は関連しているのであり、「二つの国民」論が浅はかなように、二つの政治に分離できるはずもないのです。

 ヴィクトリア女王の寵愛を受けるディズレーリの政権は、スエズ運河を買収、インドを植民地化し、キプロスをトルコから獲得しました。

 
1878年の末に始めた第2次アフガン戦争が泥沼化し、翌年の南アフリカでのズールー戦争の敗北によって世論の支持を失い、グラッドストンによる彼の膨張主義を批判するキャンペーンの成果もあって、80年の総選挙で自由党に敗れます。翌年、政界を引退したディズレーリは病気により息を引き取るのです。

 陛下、死んだのであります。閣下並びに紳士たち、死んだのであります。有徳、無徳の牧師様、死んだのであります。心の中に神の如き慈悲を持って生まれた男と女よ、死んだのであります。そして我々の周りには、毎日死にゆく者があるのです。

                    (ディケンズ『荒涼館』)

〈了〉