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社命で行っていたら人質は解放されていたか
田中 優

掲載日:2004.4.19

 タクシーの運転手はラジオから流れる人質解放のニュースを聞いて言った。「こんな勝手に行った連中のために税金を使われちゃかなわない。ジャーナリストは仕事だから仕方ないけど、NGOの連中が勝手に行くのまで払うべきじゃない。自己責任だ」と。一方で彼はアメリカの戦争のおかしさについても話し、加えて「公共事業の税金の無駄使い」についても批判していた。これはたぶん、マジョリティーの感じていることなのだろう。

 もちろんそもそもファルージャで虐殺をすることによって敵愾心を煽っているのはアメリカであるし、その占領軍の一員として自衛隊が協力することが「誘拐事件」の背景となっていると私は思う。しかしそれでも、彼の「自己責任」という言葉がどこから生まれてきてしまうのかと思う。

 彼は面白い対比をしている。「ジャーナリストは仕事だから仕方ないが」という点だ。つまり職業的に行かざるを得ないのであれば「やむなし」だが、任意で自発的に行動した者に対しては「自己責任」としているのだ。そこに何があるのかと言えば、「強制されたのなら○」、「自発的なら×」という判断だ。となると外交官が二人銃撃されて殺された事件「自発的」ではないから○だろう。

 ということは、彼の判断にある「自己責任」以外の選択肢は「国家責任」だから、これは国が責任を負うべき事柄だ。しかし政府はこれをテロリストのせいにして、そこに「安全として派遣」したことの責任を取らなかった。一方でジャーナリストにしろ、自衛官にしろ、「完全に強制」されて行ったわけではない。

 自らの判断で行くべきだと判断したから行ったのだ。そこにもやはり自己責任がある。幼児ではないのだから自分の意志で判断する。今回誘拐されていたNGOのメンバーにしても命がけで、言葉を変えるなら自己責任で行っている。そこには質的な違いはない。ただ、「やむなし」というような「自発性の量的な違い」があったのみだ。

 ここで自己責任だけ強調するなら、自己判断で任務を引き受けた自衛官が誘拐されたなら、彼は費用を自己負担しなければならなくなる。一方で国家責任だけ強調するならば、すべての海外での事故を政府が費用負担しなければならなくなる。つまりここにあるのは量的な責任判断なのであって、どっちか一方が正しいとする質的判断ではないのだ。

 今回の事例を見てみよう。誘拐された彼らは「渡航自粛勧告」を無視しているが、一般的なレベルには情報を集め、逡巡した結果として出かけている。ここで国以外には外交ができないとするか、人々のつながりを外交として重視するかという判断があり得るが、ここではとりあえず棚上げしておく。すると、彼らの落ち度は極めて少ない。

 一方の国家責任だが、国連勧告に基づかないイラク戦争を支持し、戦闘状態にあるイラクを「戦闘状態にない」と強弁して自衛隊を占領軍(CPA)の一員として加え、それまで友好的だった日本人とイラク人との関係を悪くした。しかも彼らが誘拐されたファルージャ周辺では、道路封鎖された上で600人もの無実の民間人が虐殺を受けていたが、CPAの一員として参加しながら日本政府は米軍を止めていない。この結果、イラクの人的被害の1%にも満たない人々が誘拐されたのだから、戦闘状況と考えるなら何ら不思議な事件ではない。

 こう考えると日本政府の非人道的な対応と、「戦闘地域ではない」とする強弁そのものが問題の多くを占めることが分かる。

 さて、棚上げしておいた「渡航自粛勧告」を考えよう。このような現実を故意に誤認した政府の判断に対して、人々の側からチェックと、イラクの人々の支援をすることは自粛されなければならないことだろうか。まさにこの点で彼らは「自己責任」に於いて「渡航自主勧告」を破っている。しかしこれを否定することは、国家の「大本営発表」のような情報以外は入手させないことにつながり、「知る権利」に対する重大な侵害となる。

 彼らが殺されたとしても国に賠償責任は生じないとすべきだろうが、軽微な落ち度によって犯罪に巻き込まれても日本政府に救出の責任がないとは到底言えないだろう。むしろ背景を考えるなら、この誘拐事件は「日本政府の自招行為」とも言えるものだ。日本政府が免責されるには、少なくとも属するCPAに対して、ファルージャの虐殺を止めることを勧告し、イラクを戦闘状況にある地域と認めて自衛隊の撤退の方向性を打ち出す必要があったと思う。

 そして5人すべての人質が解放されたのは、まさに彼ら自身の「自己責任」による判断の結果であった。彼らの自己責任によるイラクの人々への支援やジャーナリズムの精神そのものが、誘拐犯をして、彼らを殺させなかったのだから。これが社命に従っただけの、「やむなく」米軍の支援をする人たちであったらどうなっていただろうか。こういうときにこそ「自己責任の判断」という言葉が似つかわしい。