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『ダーウィンの悪夢』
シンポジウムレポート


齋藤真実


掲載日:2006年11月8日


 2006年11月7日、東京新宿の明治安田生命ホールで行われた映画『ダーウィンの悪夢』シンポジウム(配給会社ビターズエンド主催)に参加した。パネリストは監督であるフーベルト・ザウパー氏、松本仁一氏、勝俣誠氏であった。シンポジウムでは、まずは監督がなぜこの映画を撮ったのかについて言及し、パネリストのお二方がそれぞれ映画の感想を述べる流れではじまった。

 本シンポジウムでの監督のひとつひとつの発言は、単なる映画の補足などではなく、映画で表現されたこの世界を覆う問題性を更に押し広げ、深めるものであり、映画と同等、もしくはそれ以上の問題提起を参加者へ突きつけた。

 一言一句を記したいところであるが、要約をもってそれに代えることとする。他のパネリストの発言については、発言内で挙げられた他国の事例は割愛しエッセンスだけにとどめた。シンポジウムの概要をまとめたうえで、監督の問題提起を受け取った参加者のひとりとして感想を述べることとする。


●シンポジウムの概要〜パネリストたちの主張

 ・フーベルト・ザウパー監督<なぜこの映画を撮ったのか>


 グローバリゼーションについての映画が撮りたかった。その原点は9年前に撮っていたコンゴ内戦についての映画である。その撮影時に、援助物資が運ばれる飛行機に、爆薬・地雷といった兵器も一緒に積まれていたこと、これらを降ろした後にはヨーロッパに魚を運んでいるということをパイロットから聞くことができた。

 対人地雷と、その対人地雷で足を失った人々への援助物資である義足を一緒に積んでいる様はパラドックスであり、極めてシニカルである。パラドックスはそれだけではない。実際の凶器となるのはそれら兵器を運んでいるパイロットであるのだが、彼らがいわゆる兵器を使って大量殺人するような「悪人」ではなく、大変感じのいい普通の人物であることが最大のパラドックスであった。

 この映画では解決策は示したくなかった。解決策は映画の外にあるべきである。

<地元タンザニアの反応>

 アフリカでは映画は上映されているらしい。地元タンザニアではオフィシャルな公開禁止まではいかないが、国を挙げてのネガティブキャンペーンが起こっていることが理由でごく少数しかこの映画を観ていない。タンザニアでは大統領が映画について、とんでもないフィクションであり、この映画の監督は嘘つきであると非難した。警察は数千人規模のデモを組織し、ネガティブキャンペーンを助長している。

 今日の世界は、政府への批判をある程度はオフィシャルに受け入れるポーズをとるが、その批判がある一線を越えると批判をなんとかだまらせようと抑制力が働く。それは、意見対意見のぶつかり合いなどではなく、お金対意見、つまりお金が意見を握りつぶすという構図である。タンザニアでは政治家などの一部のエリートしか声を持たない。

一般の国民特に最下層にいる国民は声を持ってはいけない、つまり政治的に存在してはいないのである。この映画では声を持ってはいけないとされている人々が自分の言葉で語っている。それは政府にとっては多大なる脅威となるのだ。

<この映画は「希望」である>

 この映画は絶望ではなく希望なのである。この映画に出てくる子供は、「白人を皆殺しにしたい」とは決して言わず、将来自分が何になりたいか夢を語る。そんな子供たちにチャンスを与えなければいけない。

 そのチャンスとは、子供たちが存在しなければ(声を持たなければ)与えられるものではない。どうしたら存在できるようになるのか。それは私たち一人ひとりが彼らを友人のように身近に感じることで、彼らを「存在」させることができるのである。

・松本仁一氏

<映画を観た感想>


 ナイルパーチの製造現場を映しただけでも価値はある。ナイルパーチの頭は現地では捨てられているが、それはヨーロッパに人気がないせいである。ヨーロッパに人気のないものは必要がないとするこの価値観は、公の欠如を示しており、アフリカの国家が機能していないということである。資源があることがかえって現地の人々の不幸を招いている、という状況でもある。

<公が欠如したシステム>

 タンザニアだけではなく、アフリカではいわゆるエリートが国益を搾取する構図がはびこっており、一般の国民には利益は全く還元されない。国民は仕事にあぶれ、国外へ逃亡してその日暮らしの職を探す。

 日本の歌舞伎町にも労働者は流れてきて、そこでぼったくりさながらのまっとうとは言えない仕事で稼ぐのが大半である。そのような崩壊した国と私たちはどのような関係を持つべきか。ODAの内容を吟味し、誰のための援助であるのかを再確認すべきである。最近セキュリティという概念が主流になってきているが、アフリカも国が国民を守るということをすべきである。

・勝俣誠氏

<映画を観た感想>


 タンザニアには政治がない。貧困やストリートチルドレン、売春などの問題は、本来なら公的サービスによって解決すべきものである。市場の力の暴力性をコントロールする政治の力がない。市場とは欲望の惰性であり、そこでは人間は購買力によってはかられる。しかし人間はその権利でもってはかられるべきである。つきつめて言えば、やはり公の不在が問題である。

<公の不在について>

 タンザニアだけではなく、アフリカでは国の中で収入が分配されない。若い人々が、雇用が無いからカナリア諸島などの国外へ逃げる。アフリカではこのような公が欠如したシステムを見て、国民が怒りを持つことが大事である。

●筆者の感想

 この映画の本質は、監督が言うようにグローバリゼーション、その中でもグローバル資本主義の問題性をえぐることである。グローバル資本主義の問題とは、世界規模で、資本がある国および巨大多国籍企業が権力を持ち、発展途上国を搾取する構造をつくってしまったということである。

 実際、1995年に設立されたWTOを牛耳っているのはEUであり、WTOは巨大多国籍企業の発展途上国への市場を開放したのである。UNDPは世界のもっとも貧しい20%の国ともっとも富める20%の国の間の一人当たりの所得格差は、グローバリゼーションが加速するにつれ開いていると述べている。またUNCTADは国家間の所得格差が大きくなると国内の所得格差が増えるとも言及している(出典:「誰のためのWTOか?」パブリック・シティズン著)。

 ここからは、資本を持つ国が資本を持たない国を搾取する構図と、資本を持たない国内での一部のエリート層が一般の国民を搾取するという入れ子の構造が見て取れる。昨今、日本でも所得格差が大々的に取り上げられており、日本でも一部のエリートが暴利を貪ることは日常茶飯事である。しかしここで注意しなければならないことは、日本とタンザニアのそれとは事情が違うということである。

 タンザニアは自国民に対して搾取する側であると同時に、巨大なグローバリゼーションのうねりの中で搾取される側でもあるのである。映画の中にでてくるジャーナリストが、「ヨーロッパはアフリカの死で利益を得ている」と発言していたことが的確にこの状況を言い当てている。

 パネリストのお二方はそろってアフリカ(タンザニア)の国家が機能していないことが問題だと指摘されていたことに違和感を持った。事象を見れば確かにそうだが、それはグローバル資本主義のほんの断片を表しているにすぎない。

 私たちがこの問題を考えるにあたり、「タンザニアの国家よ、しっかり正常に機能しなさい!」と言う前に、なぜ正常に機能しないのか、何がタンザニアを正常に機能せしめないのかを明らかにすることこそが重要なのである。ナイルパーチの主な輸出国はEUだけでなく日本もそうである。家族団欒で楽しみながらナイルパーチを食している平和な私たちが、タンザニアを国家たらしめない元凶であるということをもっと意識するべきである。

 日本の楽しく明るい平和な食卓で食されているナイルパーチが、貧困やエイズが蔓延している劣悪な環境の中からやってくることは、これもまた監督の指摘する「パラドックス」である。日本とアフリカの接点について、歌舞伎町に流れてきた労働者についてしか言及しなかったパネリストの方に対しては、もっとこの点について深く掘り下げてほしかった。ナイルパーチの主要輸出国である日本でのシンポジウムであったのだから。

 もう一つ、パネリストの方の発言で気になったことがある。アフリカでは、国内の搾取のシステムを見て、国民が怒りを持つことが重要である、との意見である。確かに歴史的に見ても一人ひとりの国民の、政治やシステムに対する怒りが革命を起こしてきた経緯があり、怒りを持ち行動することは重要である。

 しかし、少なくとも私はこの映画を観てそのようなことは到底思えなかった。というのも、この映画に登場する、次世代を担う子供たちは、大半はストリートチルドレンであり、彼らは怒りを持って奮いたてるほどの体力も気力も持っていないのである。彼らは恐怖や餓えを感じないで済むつかの間の睡眠を得るために、ビニールを燃やしてそのガスを吸うのである。

 そのガスは間違いなく有毒で、彼らの身体を蝕むであろう。「死んでないから、生きている」というようなぎりぎりのところで生活し、彼らから怒る体力や気力さえ奪ったものは何であるのか。ここでも、「一人ひとりが怒りを持って立ち上がりなさい!」と言う前に、彼らをそのような状況に追いやってしまったシステムを改善することが先決なのである。

 監督は「子供たちにチャンスを与えることは、子供たちを存在せしめること。それは(先進国に住む)私たちが彼らを友人のように身近に感じることだ」と言及した。これは、暗に、この子供たちの過酷な状況が私たちの生活と切ってもきれないほど結びついているということを示している。その点を踏まえず、ただただアフリカの人々をエンパワーメントしたところで、それは本質的な解決を齎さないだろう。

タンザニアのこの映画に対する反応は興味深いものがある。監督は前述の通り、「今日の世界は、政府への批判をある程度はオフィシャルに受け入れるポーズをとるが、その批判がある一線を越えると批判をなんとかだまらせようと抑制力が働く」と冷静に分析している。

 これは日本でも身近な問題である。批判が真実に肉薄すればするほど、言論統制や情報操作が行われてしまうのが常だ。だからこそ、言論統制や情報操作の間隙をついて私たちは賢く事実を見つける努力をしなければいけない。監督はこの映画ではあえて解決策を示さなかった、という。

 それは事実のみを伝える必要があったからであると考えられる。解決策を示してしまえば、それもまたプロパガンダに陥ってしまう危険性があったからではなかろうか。監督はこの映画で事実を周知させることを、タンザニアの最下層の人々に声を持たせ、存在させる手法によって達成した。その意味で、単なるドキュメンタリー映画が示す以上の問題提起を私たちにつきつけたのである。

 その問題提起を受け取った私たちは何をなすべきか。私たちこそが怒りを持って立ち上がるべきなのである。フランスではナイルパーチのボイコット運動が巻き起こったそうであるが、監督が何度も指摘しているように、これはナイルパーチに限った問題ではない。

 ナイルパーチではなく、それが石油やバナナ、ダイヤモンドであっても同じことなのである。まずは、世界を席巻するグローバリゼーションのうねりのなかで、日本という国および国民である私たちの立ち位置を正確に見定めることである。日本の政治を変えることは、日本国民である私たちにしか出来ないことなのである。

 私たち一人ひとりが身近な問題として政府の政策に関心を示し、吟味・議論し、私たちの怒りを政治に反映させていくことが重要なのである。配給会社によれば、この映画を観た人は内容を誰かに伝えたくなり、この映画を薦めたい衝動にかられるようになるのだという。「自分も何かしなくてはいけないのだろうか」という思いに駆られた方がもしいらっしゃれば、ナイルパーチを二度と食べないことを決意するよりも、日本の政治を変えていくことに一緒に尽力して欲しいと願う。