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茶道初体験記
〜茶道と持続可能な社会〜


齋藤真実

掲載日:平成十八年一月十七日

独立系メディア E-wave Tokyo


 家は漏らぬ程 食事はうえぬ程にて足ることなり
 是仏の教 茶の湯の本意なり (千利休)

 1月15日は池田副所長が亭主をお努めになった初釜に出席してきた。副所長の1月14日のコラムにもあるとおり、茶道は環境問題と通じるところが多くあるという。冒頭の言葉は千利休の有名な言葉である。

 なるほど、「足るを知る」という茶道の本意と環境とは関連が窺える。茶道を習ったことが無く初めてのお茶事であったが、せっかく出席させていただくのだから、茶道のこころ、茶道と環境との関連について体感してこようと臨んだ初釜であった。


初釜で。左:齋藤真実、右:池田こみち
池田こみち邸茶室にて

 結論から言うと、茶道には環境問題よりも広い意味をもつ、持続可能な社会を形成するキーエッセンスが含まれていると感じた。以下4つにまとめてみたい。

@人に対する思いやり、心遣い
A物を大事に扱うこころ
B自然を敬うこころ
C身体・精神の健康

@人に対する思いやり、心遣い

 副所長の14日のコラムでは亭主側の心遣いについて触れてあるが、招かれた客も、亭主の心遣いに対し深い感謝の念を持って応える。ひとつ例を挙げる。客は、頂き終わった懐石の茶碗やお皿を、持参した懐紙でひとつずつ丁寧に拭いてから亭主に戻す。拭いた懐紙はこれまた持参したごみ袋に入れ、持って帰る。

 茶道の場面では亭主のおもてなしのこころに応えるお作法として解釈したが、環境問題に照らし合わせれば自分で汚した分は自分できれいにするという、何とも清々しいお作法である。観光客が各観光地や山や海でのごみを持ち帰らない問題が全国各地で山積している。果ては「宇宙ごみ」というのまでかなり以前から問題となっている。

 観光地だけではなく、私たちが日常的に出しているごみについても、収集車が持って行ってしまえば思案の外である。自分が出したごみがどこへ行き、どう処理され、どのような問題を引き起こしているのかを知ろうとしない限り、廃棄物問題の明日は無い。

 また、客同士も相手を思いやる。お茶を頂く時など、万事において先に行う者は後の者に対し「お先に失礼致します」と頭を下げる。後のものも「どうぞお先に」と頭を下げる。また、一皿に盛ったお菓子を順次取っていく際にも、後で取るひとが気持ちいいように、端のものから取っていく。これは私にとってとても象徴的な体験であった。

 かねがね、環境問題の最も恐ろしい側面は世代間不平等であると考えている。つまり、私たちが散々天然資源を使いまくり、環境を汚染しまくっても、そのツケを最も被るのは私たちではなく、これから生まれてくる世代である。現在でも環境汚染によって様々な被害があり、同じ時間軸にいても、受益者・被害者というものが存在してはいる。

 しかしより恐ろしいのは、次世代の人々が総勢被害者になることを余儀なくされることである。このまま環境に何の配慮もしない生活を続けていく限り、今日より良い環境を次世代に残すことは出来ないのだ。

 私たちは、これから生まれてくる世代に対し思いやり、配慮するべきである。次世代は現在において何の選択権も持ち合わせておらず、私たちが残したものを黙って受け取るしかないのだから。

A物を大事に扱うこころ

 茶道では亭主の扱うお道具を拝見させて頂ける機会がある。拝見にもお作法がある。お道具を落とさないようにひじを膝のうえ(畳のうえ、という場合もあるそうである!)に固定して拝見する。お道具をいつくしみ大事にするこころを身体で表すために、吹けば飛ぶような軽い茶杓であっても、持つ手にこころをこめてゆっくりと取り上げ、ゆっくりと置く。

「歴史ある高価な茶道の道具だからわざわざそのようなことをするのだろう」と私も思ったし、読者もそう思うであろう。しかしあに図らんや、帰宅後に無意識に湯のみ(安物)をゆっくり置いている自分に気が付いた。元来物の取扱いが雑なので、余計に驚いた。

きっかけは歴史ある高価なお道具を大切に扱うことであったが、それが高価ではなくても物全般を大切に扱うことに自然とつながるのかもしれない。20世紀の象徴とされる大量生産・大量消費・大量廃棄というお馴染みの言葉は、なおも21世紀にも生き続けている。物を大切にすることが持続可能な社会の根底には必要である。

B自然を敬うこころ

 露地の石・土・緑、つくばいの石・水、茶花の存在感は意外にも大きく、もしこれらが無かったとしたら、お茶室の雰囲気もお茶も味気ないものとなるだろう。こういった石や水、土や植物はいわゆる「自然」ではないかもしれない。しかしこれらに対して配慮することにより、自然に対する関心が生まれるのである。

 特に都会に暮らす者にとっては土や石や植物と接する機会が少ない。それ故、大切さがわからず愛着も無く、失っていく事に対する恐れがない。

 森林伐採や水汚染・水資源枯渇の問題は根深く、今後もより深刻化していくことが懸念されている。ふと、植物が失われていくことや水資源が枯渇することについての危機感を、多くの人々は感じていないのではないかとすら思うことがある。

 とは言え、アマゾンで森林伐採と言われても日本を見渡せばまだ山があるし、水汚染や水が足りないことで死んでいく人々の話をどこかで聞いても、帰りに寄ったコンビニでは大量のペットボトルの水が売られているといった状況である。これでは危機感が生まれないのも道理である。

 しかし、自然に対する関心が生まれれば、「日本に山がまだたくさんあるのなら、私たちが使っている木・紙製品はどこからくるのだろう?大量のペットボトルの水はどこからくるのだろう?」といった疑問もうまれてくるのではないかと思う。

C身体・精神の健康

 環境面・財政面など、あらゆる側面で持続可能な社会とはどのような社会かということが論じられている。最近になって、子供の体力の低下が取り沙汰されるようになってから、私は社会の構成員である人間一人ひとりの生命の持続可能性について不安に思うようになってきた。

最近の子供は前に大きくジャンプすることや、大勢で駆け回っているときに相手をうまく避けるということができなくなったという。そんな体力や運動神経でこれからの乱世を生き抜いていけるのだろうかと、将来が心配である。

 さて、初釜に出席した私だが、人の心配をしている場合ではないことをひしひしと感じた。というのも、正座が出来ないのである。恥ずかしながら、早々に正座補助用座椅子をお借りしたのであった。自宅に畳がないため、正座をする機会が全くない。法事もほとんど自宅で行うので椅子である。

茶道では正座だけではなく、立ったり座ったりも多いので、大いに足が鍛えられる。「なんだそんなこと、」と思うかもしれないが、これから畳のある家が減っていくにつれ、正座ができない人が増えることが予測される。動物にとって足が弱ることは死を意味するように、人間にとっても然りである。

 初釜の席で感心したことの一つに、皆の感受性の豊かさがある。後で思ったことだが、茶道には亭主と客の間に有言の会話と無言の会話がある、ということによるものなのではないか。亭主が用意されたお軸や茶花などから、客は当日の茶事のテーマを汲み取るものであるという。

それが言わば無言の会話であり、感受性がなくてはできないことである。また、お道具を拝見する際には「すごい、きれい」という舌足らずな言葉で終わらせるのではなく、「この柄はおめでたいことを表している」「まるで音楽でも聞こえてきそうな楽しい柄」といったような味わいを表現するのだ。

 環境問題だけではなく、あらゆる社会問題にも言えることだが、物事や人の思いに深く感じ入る感受性を持つことが根本に必要であると考える。特に、人の苦しみ、痛みといったものを自分の苦しみや痛みとして感じられるか、そこが鍵となると感じる。もっと人の痛みに対して敏感になれたら、犯罪や戦争が減り、環境問題も改善するのではないかと思う。

 このように精神的・身体的に健康である人々が構成する社会が持続可能な社会とも言えるのである。

 以上、4つの項目において、茶道と持続可能な社会との接点を述べた。素人の感想としてご笑覧頂ければ幸いである。