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偽証は
どのような論理によって
証明されるか

〜田中知事への刑事告発に関連して〜

楽天:秀さんブログ

2006年3月31日


原典(出典)

偽証はどのような論理によって証明されるか
http://plaza.rakuten.co.jp/ksyuumei/diary/200603290001/#comment


 長野県の田中知事が、偽証の疑いで告発されたという。偽証の中身は、「田中知事偽証告発へ 長野県議会」というニュースによると、

 「偽証があったとされたのは、情報公開請求があった公文書を県職員が破棄した問題をめぐる証言など。公開を求められた公文書には、知事後援会元幹部が二〇〇三年春、下水道事業入札制度で県内業者を優先するよう働き掛けた経緯が記録されていたが、請求後に県職員が破棄した。

 疑惑のため、県議会は昨年七月、百条委を設置。公文書を破棄した県参事(当時)は同委で田中知事の指示を受けて破棄したと証言したが、田中知事は同年九月二十六日の証人尋問で「私からの指示はない」と否定した。百条委は今月二日、一連の疑惑に対し、知事として不適切な行為があったと結論付けた。

 この日の本会議の提案説明で高見沢敏光氏(志昂会)は「知事は破棄の報告を逐一受けながら中止していない。破棄の実行を容認し、言外において指示したと考えられる」と指摘。指示を否定した知事証言は偽証に当たるとした。「推測は成り立つが告発の根拠にはなりえない」との反対意見もあったが、賛成四十一、反対十三で可決した。」


 というものだ。偽証のポイントになるのは、「私からの指示はない」という言葉だ。これが嘘だと言うことは、「指示があった」にもかかわらず、田中知事がそれを否定したときだ。上の記事を読む限りでは、直接指示を示す言葉はなかったようだ。だから、その限りでは、「私からの指示はない」という言葉は正しいものだと思われる。

 問題は、「知事は破棄の報告を逐一受けながら中止していない。破棄の実行を容認し、言外において指示したと考えられる」と言う論理が正しいものと認められるかどうかにあるだろう。指示の言葉はないのだから、「指示していない」にもかかわらず、「中止させなかった」という行為が「指示した」事に当たるという論理が正当なものかどうかと言うことだ。これは弁証法的な矛盾である。

 この弁証法的な矛盾を解明するには、どのような視点から見たときに「指示していない」と言えるのか、どのような視点から見たときに「指示した」と言えるのか、その違いを正しく区別しなければならない。その上で田中知事の行為が、どちらの場合に当てはめるのがふさわしいかを判断することになるだろう。

 一般論として、指示していないにもかかわらず、指示したと判断されて責任を問われるのはどういうケースか考えてみよう。自立した人間は、自らの行為によって引き起こされた結果に対しては、自分で責任を持たなければならない。自己責任の原則というものがある。

 しかし、自己決定の自由な選択の中に、何らかの制限がある場合は、その制限をもたらしたものが責任を分担しなければならない。自己責任というのは、あくまでも自分の自由な選択の結果に対して責任を負うと言うことでなければならない。

例えば、十分な情報を与えずに選択をさせた場合、その選択が間違いだったと言うときは、情報を与えなかった側に責任の分担が生じるものと思われる。そっちの方へ行くと危険だと言うことが分かっているときに、その危険の情報を十分与えなければ、情報をつかんでいる側には責任が生じる。情報をつかんでいなければ仕方がないが、知っているにもかかわらず教えなかったら責任を負わなければならないだろう。

 また、自己決定的な判断が完全に行えないようなケースでは、直接には指示していなくても、黙認することに責任が生じるケースも考えられる。地下鉄サリン事件においては、松本被告の直接の指示はなかったように言われている。もし直接の指示があれば、それは決定的な証拠となり、裁判もそれほどの難しさがなかったのではないかと思う。

 直接の指示がなかったにもかかわらず、信者の誰もが、松本被告の意志を忖度して犯罪に走ったというのが、状況証拠的なものなのではないだろうか。松本被告は、抽象的な意味の断片的な言葉は語ったようだ。

 しかし、それは具体的にどう解釈するかは、解釈する方にゆだねられていたようだ。その解釈は、教団にいたものにとっては自明とも言える解釈だったのだろうが、松本被告には直接の指示はなかったと考えられる。

 このとき、直接の言葉はなかったのだから、松本被告に責任はないという論理を展開すれば、それはかなりおかしいと感じるだろう。彼の絶対的権力の構造を考えれば、犯罪が行われようとしていたときに、それを止めなかったという行為に責任が生じると考えられるのではないだろうか。

 常識的には、直接指示する言葉がなければ指示はないと見るのが普通だ。指示する言葉がないにもかかわらず、指示していると判断出来るのは、かなり特殊な場合に限られる。だから、田中知事に対しても、「言外において指示したと考えられる」ということを証明するためには、そう考えられるだけの特殊性を田中知事のケースも持っているのだと言うことを証明しなければならない。

 上の新聞記事だけからでは、このような特殊性はうかがえない。田中知事が受けた報告が、破棄の前なのか後なのかというのも、記事だけからではハッキリしない。破棄の前に、破棄することの報告を受けたのならそれをやめさせることも出来ただろうが、破棄の後で報告を受けたのなら、それを中止させることは物理的に不可能だ。

 また、破棄の前に報告を受けていたとしても、その時点で破棄が不当なことであるかどうかは明確に判断出来ることだったのだろうか。意図的に破棄を黙認したということが言えれば、そこには未必の故意のようなものが推測出来るかも知れないが、判断ミスだった場合には、「指示をした」とは言えなくなる。

 このときに、破棄が不当なことであり、その責任を問わなければならないもので、もしその責任を問うことを忘れていたのなら、それは責任の追及をしていないことが批判されるべきであって、「指示をした」という批判にはならない。つまり偽証には当たらないものになるだろう。

 田中知事の具体的な行為が、「指示の言葉がないにもかかわらず、結果的に指示したことになった」と整合的に証明出来なければ、この告発は成り立たないだろう。

 果たして田中知事の行為は、「結果的に指示をしたことになる」と証明出来るものなのだろうか。具体的なニュースでは、このことが分かるように書かれたものが見つからない。

信濃毎日は、さすがというか、反田中新聞としてふさわしい表現をしている。「「知事偽証」地検に告発 「公文書破棄」で県警に」というニュースでは、


 「告発状などによると、知事は証人尋問で、県下水道公社の事業発注方法を県内業者優先に変更することを含む改革について「全庁的な共通認識だった」と述べ、後援会元幹部の「働き掛け」の影響を否定したが、県幹部らの証言と食い違っており偽証した疑い。

 また、「働き掛け」の記録文書を破棄すると部下からメールで報告を受けたのに中止させず「容認」したことは言外の破棄指示に当たるのに、「私からの指示はない」と偽証した疑い。」


 ここに書かれている事実は、田中知事の発言と県幹部らの証言が食い違っていると言うことだけである。それがすぐに田中知事の「偽証した疑い」になるというのは、さすがに信濃毎日だという感じがする。もしかしたら、県幹部らの方が偽証していたのではないかという発想はまったく浮かばないのだろうか。

 信濃毎日の問題は、「知事偽証告発 迅速対応を当局に求める」と言う3月26日の社説にも感じる。ここでは、


 「知事に対しては、元幹部が政策秘書室などにしょっちゅう出入りできるよう「特別扱い」にし、働きかけ問題を生じさせた「道義的に重大な責任」があるとしている。

 議会側はこれらの事実を認定しながら、地検への告発では百条委の場でうその証言をした「偽証」などの疑いにとどめた。」


と書いているが、これは事実の報道という点でのジャーナリズムとしては失格の記事だと思う。「特別扱い」というのは、どこが事実だというのだろうか。単に、ある事実をそういうふうに解釈して受け取っているに過ぎないのではないか。

 「特別扱い」だというのなら、どのように具体的に扱ったことが、異例のことであり特別なのかというのを具体的に指摘すべきなのだ。それが出来ないのであればジャーナリズムとしては失格だ。

 そして、まだ証明されたことでもないのに「うその証言をした」と、ことさらマイナスイメージを振りまくようなレトリックをどうして使うのだろうか。この社説を書いた記者は、レトリックの能力はあるかも知れないが、ジャーナリスト精神は皆無のようであると僕は感じる。

 「うその証言をした」ということが判断として語られていれば、その判断が不当だということがすぐ分かるが、これは「偽証」という言葉の修飾語として文法的には理解出来る。

 つまり判断ではないので、間違った判断だという批判は免れている。しかし、注意深く読まない読者は、「うその証言をした」と言うことが判断として語られていると誤解するだろう。レトリックとしてはまことにうまいと言わなければならないが、ジャーナリストとしては最低だと僕は思う。

 田中知事の行為が本当に偽証に当たるかどうかは、百条委の記録などを見て、自分の頭で判断しなければならないだろうと思う。