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泰阜村住民としての田中康夫さんの名刺
   青山 貞一

掲載日:2004.4.6、 4.10拡充


 長野市から飯田市、飯田市から長野市に向かう高速バスの車中からPHSを使ったメールがよく来るようになった。それにしてもヤッシーは元気だ。


 田中康夫さんの泰阜村(やすおか)への住民登録を巡り、泰阜村と長野市との間で確執が続いている。しかし、田中康夫さんは、マスコミからいくら叩かれようと、この問題については、初志をまげない。

 それは単なる意地としてでなく、戦前満蒙開拓団に多数の村民を送った悲しく厳しい歴史を持つ長野県泰阜村を心底愛する一村民として、自分でできることをしている。

   ※満蒙開拓団の入植地

 実は私が57年住んでいる東京都の品川区小山3丁目(東京を代表する商店街、武蔵小山商店街で有名:もともとは荏原村と言った)一帯の住民も、戦前、戦中、満蒙開拓団にかり出されて、その多くは帰らぬ人となっている。
 
 
以下は、田中康夫さんの泰阜村住民としての名刺 転載厳禁です。

◆満蒙開拓団 ( まんもうかいたくだん)

 満州国(中国東北区)の開拓を目的とした移民団。 試験移民 (自衛移民)の段階を経て 集団移民 となる。ほかに 分村移民 、 満蒙開拓青少年義勇軍 などがある。詳しくは上記のホームページを参照のこと。


田中康夫様

 青山貞一です。

 私が57年住んでいる品川区小山3丁目(通称、武蔵小山商店街)では、その昔約1000人が満蒙開拓団に参加し、800余名が亡くなった歴史があります。近所のお婆さんからよく荏原村満蒙開拓団の悲しい話を聞かされました。40年近く前、ガンで亡くなった父も満蒙開拓団員に誘われたそうですが、体が弱かったこともあり参加しなかったそうです。90歳になる母に聞くと、多くの女性団員はあるとき、性的虐待や辱めを受けるくらいならと、毒を飲んで集団で自決の道を選んだそうです。

 満蒙開拓団に行き帰らぬ人となった人々の慰霊碑が朗惺寺と言うお寺にあります。私の自宅から100mも離れていない場所にあります。

 私がブレずに「非戦」に徹底しているのには、いくつかの理由がありますが、幼少の頃から聞かされたこの満蒙開拓団の悲しい歴史を聞かされたこともその一つとなっています。

◆満蒙開拓団と東京都品川区武蔵小山

 太平洋戦争半ばの昭和十八年、武蔵小山商店街の人たちは開拓団を組織して千人余りの団員が現在の中国東北部の旧満州に渡った。ところが、終戦直前の二十年八月のソ連軍進攻による混乱で開拓団が南方へ避難する途中、暴徒に襲われて八百余人が命を落すという惨事に見舞われた。

 慰霊碑はこの痛ましい犠牲者を追悼するため、かろうじて帰国した人たちによって重三回忌を迎えた昭和三十二年に建てられた。碑の両側には開拓団結成の趣意や、慰霊碑建設の主旨が刻まれている。

 活気のある現在の商店街からは想像もつかない戦争の大きな傷痕で、碑の前には今も花が供えられている。だが、寺の話しでは参拝者は年々少なくなっているそうで、戦争の悲劇も歴史の一コマになろうとしている。