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環境弁護士へのエール

青山貞一
武蔵工業大学環境情報学部教授

初出:環境と正義 2005年夏号(予稿)
(日本環境法律家連盟)

掲載日:2005.6.10


 私は仕事柄、過去、30件近くの環境訴訟や公害調停に証人、鑑定人、証拠保全、証拠提出などで関与してきた。そのなかには、川崎公害訴訟、東京大気汚染公害訴訟などの大型の公害裁判や日の出町広域最終処分場操業差止裁判や厚木基地ダイオキシン仮処分、所沢ダイオキシン公害調停などのゴミ・有害物質関連訴訟、さらには圏央道など幹線道路の建設差止裁判なども含まれる。

 他方、私は政府提案法案、議員提案法案を問わず、衆議院、参議院の環境委員会や予算委員会に参考人や公述人として招致され、環境影響評価法案、地球温暖化防止推進法案、ダイオキシン類対策特別措置法案など環境公害関連法案につき議員と議論してきた。かれこれこの回数も10回ほどになる。


参議院予算委員会で公述する青山貞一



参議院予算委員会で公述する青山貞一


衆議院環境委員会で参考人意見を公述する青山貞一

 またNPOの環境行政改革フォーラム(青山が代表幹事)では、土地収用法や地方自治法一部改正による住民訴訟改正などに関連し、NPOの立場から法改悪の阻止に仲間とともに努力してきた。住民訴訟制度の改正では、友人の行政法学者や弁護士らと30回以上議員会館に足を運び、各会派の会合で総務省が提案する改正の内容が国民、納税者の立場からいかにおかしなものかについて説明したりしてきた。

 さらに業務では、国、自治体の環境法や環境条例、たとえば、自動車窒素酸化物対策特別措置法案や環境基本条例(川崎市)などの制定を支援してきた。

 上記の活動で常々感じることがある。それは三権分立であるべき日本の民主制度だが、本来、立法府がなすべきことの多くを行政府が行っていることである。元来、民主主義国家にあっては、立法府が立法活動を通じて行政府をコントロールすることが本筋であるはずである。だが、現実は、国、自治体を問わず圧倒的多くの立法行為が行政府のお膳立てのもとで行われている。その結果、できあがった法律の多くが、議員立法ではなく行政立法(閣法)となっている。これはとくに環境法など行政法で顕著である。執行機関、行政に多くの裁量が与えられることから、仮に裁判になっても多くの場合、行政機関側が負けないように仕組まれていると言ってもよい。最近の土地収用法、住民訴訟の改正などを見るにつけ、その感を強くする。

 以下、それを例証する2つの実話を紹介しよう。

 ところで、私が直接係わったダイオキシン類対策特別措置法は、環境立法ではきわめてめずらしく議員立法、それも参議院発の議員立法であった。当時、国民、世論の高まりもあり、一議員と一研究者の議論から始まった同法が法制定にこぎ着けた。しかし、よく見れば、仮に法そのものを議員が提案し制定したとしても、いわゆる政省令、規則、告示、指針など、法の施行に伴うもの、喩えて言うなら法を<骨>とした場合、<肉>、<皮>そして<血>などの重要構成要素は、いずれも行政側によってつくられているのである。もちろん昨今ではパブリックコメントがある。しかし、パブリックコメントによって上記の内容に変更がもたらされた例はほとんど聞いたことがない。

 次の例は、自動車窒素酸化物総量抑制法改正である。参議院の国土環境委員会で同法の改正案が審議されている最中、こともあろうか閣法の提出官庁である環境省は、国土交通省はじめ他省庁との間で改正後の省庁間の縄張りを記した覚書を取り交わしいたのである。この委員会に参考人に呼ばれた私は、前日までに自宅に送られてきた資料のなかにその覚書が含まれていることを発見、当日、それを委員会で暴露した。委員会は蜂の巣を突っついたような騒ぎとなり、最終的に環境大臣が各省庁と取り交わした覚書をすべて破棄することで一件落着した。私がおどろいたのは、同じ資料が配布されていながら、各会派の議員や私以外の参考人の誰も気づかなかったことである。

 
環境公害新聞 ◇NOx法改正案で覚書
 環境省と国土交通省が自動車NOX法改正案について、覚書を交わしていたことが三十一日、参議院環境委員会で明らかになった。同法案は同日、参議院で可決し、衆議院に送付されたが、同日行われた参院環境委員会で、参考人として呼ばれた環境総合研究所の青山貞一所長が「覚書」の問題を指摘し、波紋を呼んだ。川口順子環境相はその後、国会で覚書は破棄すると答弁した。

 上記のような例は枚挙にいとまがない。そもそも、立法府の委員会で専門家から意見を聞くとされているのはまだしも、その委員会は、きまって委員会の最後である。多くの場合、専門家からの意見聴取の直後に採決に入る。結局、圧倒的多くの法は行政府が出す法案に寸分違わず制定される。かくして、省庁の官僚らにとって立法府は単なる手続民主主義の形式論的アリバイに過ぎないものとなっている。

 さて国民、住民にとって問題解決の最後の砦とされている司法はどうであろうか? 残念ながら、行政による立法の蹂躙に似たようなことは、司法分野でも例外ではないような記がする。

 近年、環境訴訟では、地裁判決などで結構、画期的なものが民事訴訟だけでなく、行政訴訟でもでている。だが、仮に初審で画期的な判断が出ても、高裁、最高裁と行くにつれ、どうみても国(政府)の意向に沿った形で、ひっくり返ることが多いのは大変残念である。ごく最近のもんじゅの最高裁判決でも、それを強く感じた。

 環境法の立法や環境訴訟判決は、本来、目先の国家権力や目先の経済的利害を離れ、国家百年の計として判断されなければならない。これは日本のように政権交代が乏しい民主主義国家にあってなおさらである。

 友人の田中康夫長野県知事は、日本社会をして<政><官><業><学><法>による既得権益の追認社会と揶揄したが、まさにその感は否めない。

 環境弁護士諸氏には、ぜひとも地域から日本社会を変革する気概を持ってことにあたって頂きたい。それが私からの切なる願いである。