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「大日本主義」と「小日本主義」
   青山 貞一


◆「脱亜入欧」と「大日本主義」
 
 江戸時代、松代藩、今の長野県出身の佐久間象山は「小日本主義」的な日本の国家像を提唱したとされる。「小日本主義」の意味するところは、対外的膨張主義、すなわち「大日本主義」を排する国家思想である。もし、この「小日本主義」がその後の近代日本を今日まで支配したとすれば、現在とはまったく異なった日本が存在したことになるだろう。

 ※佐久間 象山(さくま しょうざん)
   文化8年2月28日(1811.3.22)〜元治元年7月11日(1864.8.12)、松代藩(長野県)下士。幕末期の思想家。佐久間一学(父)


 ところで明治維新以降の近代日本の民主主義の礎ををつくったひとり、福沢諭吉は、いわば「大日本主義」的な国家思想をもっていたとされている。それは佐久間象山の一番弟子であった吉田松陰が「大日本主義」者であったことに通ずるものがある。

  少々唐突な議論ではあるが、筆者は現在日本でかまびすしく論議されている対米追随の大きな源流のひとつは、福沢諭吉の思想にあると思っている。福沢諭吉は周知のように、「官尊民卑」が支配的な日本社会にあって、「官」と「民」の平等を鋭く説く思想において評価されてきたことは言うまでもない。

 だが、その福沢諭吉が「大日本主義」的な国家思想者である点は見逃され軽視されている。

 明治維新を代表する多くの識者、政治家は、福沢諭吉以外にも「脱亜入欧」を旨として、欧米諸国から民主制や資本主義のイロハを学習するとともに、対外膨張主義を同時に学んできたのある。

 ※福沢諭吉
   (1834〜1901)思想家・教育家。豊前中津藩士の子。緒方洪庵に蘭学を学び、江戸に洋学塾を開く。
   幕府に用いられ、その使節に随行して3回欧米に渡る。維新後は、政府に仕えず民間で活動、1868年(慶応4)塾
   を慶応義塾と改名。明六社にも参加。82年(明治15)「時事新報」を創刊。独立自尊と実学を鼓吹。のち脱亜入欧・
   官民調和を唱える。著「西洋事情」「世界国尽」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「脱亜論」「福翁自伝」など。(広辞苑)
   その福沢は脱亜論のなかで「欧米列強に対抗するために、朝鮮・中国の開明を待つことやめ、欧米のように処分(侵略)
   すべきである」という主張を展開しているとされている。


 ※大日本主義と小日本主義
   「『そもそも大日本主義とはいわゆる大英主義と相同じく、領土拡大と保護政策とをもって、国利民福を増進せしめんと欲
   するに対し、小日本主義とはいわゆる小英主義にして、領土の拡張に反対し、主としてて 内治の改善、個人の利益と
   活動力との増進によって、国民利益を増進せんとするものなり。・・・前者は軍力と征服とを先にして商工業を後ちにする
   に反し、後者は商工業の発展を先にして、誠に必要やむべ からざる場合のほかは極力軍力に訴うることを避く。・・・』」
   (田中彰著「小国主義」より)


「大日本主義」の帰結

 「大日本主義」の道を選択した日本は、明治維新以降一貫して朝鮮半島から中国大陸、さらに東アジアから東南アジアに侵攻を進める。日本は大陸で満州国なる傀儡政府を樹立し、太平洋戦争に突入して行った。それらの歴史は、まさに「大日本主義」思想の実践の歴史でもあった。しかも、日本政府は「大東亜共栄圏」、すなわちアジア諸国を欧米列強から開放すると美名のもとアジア諸国に侵攻し、各地の領土を占領した。軍部は、近隣アジア諸国に対し「あなた方を欧米列強から護る」と喧伝していた。しかし、その実は、武力による対外膨張主義の道をつき進んだと言ってよいだろう。

 日本は1941年以降さらに東南アジア諸国に侵攻した。そして1945年に全面敗北した。日本が起こした戦争の数々は、アジア及び太平洋諸国に実に犠牲者2000万人以上もの世界史上まれにみる惨劇をもたらしている。これはNHKが2003年暮から元旦にかけ深夜に連日放映していた「映像の世紀」の最終章を見れば明らかである。

 ※ 日本の軍隊は、中国大陸に大東亜共栄圏(アジア広域共存共栄経済圏)の建設を目指し侵攻した。当時日本の指導者は
    この行為を、欧米列強による「植民地解放の聖戦」と呼んだ。日本がこの大東亜共栄圏の名の下に行ったことは、何ら植民
    地解放、とか聖戦ではなく、単なる新たな植民地主義的侵略であったとされている。

  ※ 日本の「大東亜共栄圏」が結局、美名とは裏腹に東南アジア諸国の資源を搾取、収奪することにな
たことを示す
    貴重な絵がある。


◆9.11と「大日本主義」の復活

 日本政府は、9.11以降、従来からの対米追随姿勢に加え、急激な右旋回により国家主義化を強めた。

 その最も顕著なものは、なし崩し的な自衛隊の対外派兵の道である。2003年、世界の圧倒的世論が反対し、もともと何ら正当性のない米英両国のイラク戦争への先制攻撃を日本政府はもろ手をあげ支持した。それにとどまらず、五〇億ドルに及ぶ「復興資金」のを拠にも合意した。さらにイラク特別措置法を制定するなかで戦争状態が終結しないイラクに陸海空の自衛隊を派遣した。4月に入ってからもODAで400−500億円を別途イラクに援助するとしている。

 かくして9.11以降、あれよあれよの間に日本政府は再度、「大日本主義」の道を直線的に歩み始めたのである。

 平和と福祉、環境を標榜する公明党が自民党の動きを阻止するどころか、言い訳をしながらも補佐したことは歴史に残る愚考であると言ってよい。

 9.11以降民主党がとった政策がジクザク迷走したことも自民党の急激な右旋回を助長したと言ってよいだろう。

 日本政府はイラク戦争支持についても、イラクへの自衛隊派兵についても、国会で詭弁の限りをつくした。しかし、誰がどう見ても、このような潮流は、戦後日本がぎりぎりのところで構築してきたいわば「小日本主義」から戦前の「大日本主義」に大なる一歩を踏み出したのである。これは歴然としている。日本政府はまぎれもなく、9.11を「大日本主義」への転換に悪用したのである。日本政府が「普通の国になる」と言ったとき、それはまさに「大日本主義」を意味すると言ってよい。

◆ブッシュ政権の末路

 小泉政権は、9.11以降のブッシュ政権の単独行動主義に盲従してきた。しかし、2004年1月、日本政府が一貫して盲従してきたブッシュ政権のほころびが露わになってきたのである。

 ブッシュ政権の懐刀であった財務長官の辞任をかわきりに、カーネギー財団そしてCIAケリー顧問による大量破壊兵器の不存在報告が相次いだ。ブッシュ大統領とブレア首相が金科玉条としてきた世界をすぐに恐怖に陥れるというイラクの大量破壊兵器は、足元からぐらついたのである。大量破壊兵器が存在しないにもかかわらず、イラクでは子供や年寄りを含め1万人以上の市民が死に、米兵らの死亡者も500人を超えている。

 チェック・アンド・バランスは米国型民主主義の原点のひとつである。米国大統領の予備選挙では、民主党のケリー議員が各種世論調査で共和党のブッシュ現大統領支持を大きく上回り出したのだ。まさに米国型のチェック・アンド・バランス民主主義の復権である。思い起こせば、ブッシュvs.ゴアの大統領選挙はごくごくわずかな差しかなかった。どちらが大統領になってもおかしくなかったのである。もし、ゴアが大統領となっていたなら、9.11はなかったと論評するひとも多い。

 もし、この秋、ジョージ.W.ブッシュが民主党のケリーに破れたら、日本政府はどうするのであろうか? 
 これまでの異常な極端な対米追随によるリスクを日本政府はどう償うのであろうか? 

◆日本外交が目指すべきは「小日本主義」
 
 私は今こそ、日本国民は「小日本本主義」的な国家像を明確に打ち出しすべきだと思っている。

 外交面でも米一辺倒ではなく、EU諸国と密な関係を築く。同時に、近隣アジア諸国と政治、経済を含め友好的な関係を樹立すべきである。そこにこそ日本の将来、すなわち持続性があると見る。

 その第一歩はいうまでもなく、アングロサクソン追随一辺倒から国連中心主義への転換であり、軸足を欧米だけでなく、近隣アジア諸国に移すことである。日本がアジア諸国を指導の対象や直接投資、市場、労働力の対象としてではない。過去の歴史を真摯に反省し、対外膨張主義でなく、いわば互恵平等的な関係を築くことが「小日本主義」への第一歩となると考える。同時に自衛隊はあくまでも国内にあって専守防衛に徹する存在であるべきと考える。