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観客民主主義と手続民主主義     青山 貞一


 田中康夫氏は、週刊WebSPA3月9日号(3月2日売)のなかで、「手続民主主義に幻想を抱く向きは、観客民主主義の愚考に無自覚だね」と論じている。けだし名言である。

 今の日本社会には2つの民主主義がはびこっている。「観客民主主義」と「手続民主主義」である。国から自治体まで蔓延するこれら2つの民主主義は、結果として社会変革に役立たない。2つの民主主義に共通するのは、本質を見ず、揚げ足取りに終始することで自己満足することである。単なる自己満足ではすまない、現状の利権構造を追認し既得権益を固定化するのである。多くの日本人は、残念ながらこの事実に気づいていない。

 観客民主主義は、あれこれ批判し論評を発するものの、いつまでたっても観客席に居座っている。具体的に何もしない、動かない、対案も示さない。今の日本の政治や行政の世界では国から地方まで、観客民主主義が蔓延していると言ってよい。地方議会にはびこる観客民主義はとくにたちが悪い。本来、条例は議員がつくるべきものである。そのために相当額の政務調査費を報酬とは別に税金からもらっている。にもかかわらず、自分たちは何の条例案も提出せず、知事(=行政)が出す条例案に批判ばかりしている。これを観客民主主義と言わずして.....である。

 一方、手続民主主義者は、手続上の公平性や透明性、参加性を主張する。理念、政策がどうであれ、さらに結果がどうであれ、ただ単に手続が遵守されていればそれでよしである。手続を踏襲し決まったことはどんなにおかしなことでも甘受せよ言う。この手の手続民主主義者は、明確な理念、目的をもつ首長をして、独裁者と烙印を押す。明確な理念をもったリーダーシップ、などとはけっして言わない。

  このような手続民主主義の帰結は単純な多数決である。果たしてそれが民主主義の本質であろうか? もとが間違っていれば、いくら手続民主主義を経由してもその結果はひとびとのためにならない。 往々にしてこの種の手続民主主義は国家主義や軍国主義を招来するのである。昨今の国会を見ているとそれを強く感じるのである。 

 田中康夫知事の「脱」ダム宣言をさして、独裁的であると言うひとびとは、まさに「観客民主主義者」であり、「手続民主主義者」である。「観客民主主義者」と、「手続民主主義者」に共通しているのは、既得権益の維持と現状の追認である。

 永年、権力の座にいる政官業や為政者には、手続民主主義に幻想を抱き、観客民主主義の愚考に無自覚な有識者と表現者(マスコミ)はこの上なくありがたい存在なのである。
 
 今の日本に必要なのは、結果責任であり、結果民主主義ではなかろうか。いくら手続民主主義を踏襲したとしても、結果が納税者、国民の経世済民から離れては何にもならない。同時にいくら説明責任を果たしたとしても、結果責任を負わない政治家ばかりでは、ひとびとは救われないのである。

 冒頭に示したWebSPAで、田中康夫氏は次のように締めくくっている。
  「的確な認識・迅速な行動・明確な責任」の哲学と気概を有するトップが陣頭指揮する企業は、元気です。にも拘らず政治の世界を報じる表現者は手続民主主義に拘泥し、斯くなるトップは強権的だ、と指弾し勝ちです。その自分こそが観客民主主義の呪縛に囚われているとも自覚せずに、ね。 と。