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<連載>
世界二大運河通航記
 パナマ運河編(1)


阿部 賢一

2006年7月22日


阿部賢一(あべけんいち)氏プロフィール
1937年、東京生まれ。68歳。シビル・エンジニアとして主として海外プロジェクト従事。海外調査・交渉・現地駐在は南米、アジア、中東諸国に二十五年以上に及ぶ。海外関係講義、我が国公共入札改革への提言、環境活動にも参加。2005年完全引退後も東京、山形(酒田)を拠点にして海外情報収集分析に励む。


1. クリストバル港着岸

 4月2日、トパーズ号は、ジャマイカのモンテゴベイ港を午後23時に出港、カリブ海を一路パナマ運河に向かって航海を続ける。地球一周の船旅も62日目、4月4日、パナマ運河大西洋側入口コロン市のクリストバル港に入港、午後1時、クリストバル・クルーズ・ターミナル第6号埠頭に着岸した。

 埠頭では、パナマ民族衣装のポジェラ姿の女性二人がダンスで、そして、原住民のグループが民族打楽器演奏で歓迎してくれた。

 ポジェラはパナマのアスエロ半島を起源とするパナマ女性の民族衣装で、木綿の生地に幾重ものレースや刺繍が施されている。頭には魚のウロコを象った装飾品をつけている。輪舞しながらロングスカートを拡げる姿は美しい。上陸してわかったのだが、出迎えてくれた彼等はこの埠頭建物の中のビアホールで民族ダンスを披露し、民芸品を売っている人々であった。

 この埠頭には、「カリブ海クルーズ寄港歓迎」の大看板が掲げてあり、最近客船の寄港が多くなっているようである。

 トパーズ号は当初このクリストバル港には着岸する予定はなかった。港の沖合いに停泊して、本船燃料の給油を受けるだけということだった。情報通の乗客の話によれば、本船の給油カップリングが旧式でサイズが合わず、急遽着岸して給油を受けることになったという。ことの真偽の程は不明である。いずれにしても、5分も歩いて港の外に出れば、そこはパナマ第二の都市、コロン市である。にわか雨の後で雲は低いがどうやら天気も持ちそうだ、というので、乗客仲間のオバサン4人に急かされてコロン市中心街に散歩に出ることにした。港のゲートまでは約500m、途中、難破船がぼろぼろに朽ち果てて岸壁そばに打ち寄せられていた。

panama_map.gif (18742 バイト)
図−1 パナマ運河全体図
http://homepage2.nifty.com/go_tokyo/life_pan.htm

2. コロン市

 パナマという国名は、原住民クエーバ族が「魚の沢山いる場所」や「漁師」のことをパナマと表現していたことに由来する。首都は太平洋岸のパナマ運河玄関口、バルボア港のあるパナマ市である。

 コロン市は大西洋岸のパナマ運河玄関口でパナマ第二の都市である。

 コロン市及びクリストバル港は、1492年、アメリカ大陸発見のクリストファー・コロンブス(英語名Christopher Columbus)に由来している。彼はジェノバ生まれというが、イタリア語名はクリストフォロ・コロンボ(Cristoforo Colombo)、スペイン語名はクリストバル・コロン(Cristobal Colon)という。地中海を大西洋に出て、カナリヤ諸島のグラン・カナリヤ島ラス・パルマスに3月21日寄港し、アメリカ大陸航海の基地となっていたコロンブスの家にも行ってきた。その家は現在は博物館になっている。

 コロン市の人口は、2000年、約20万4千人。パナマ鉄道の起点である。パナマ運河と並行して走り、終点はパナマ市である。鉄道建設は1850年に始まる。この鉄道建設はカリフォルニアのゴールドラッシュに触発されたもので、1855年1月28日に一番列車が走り、大西洋と太平洋を結んだ。

 コロン市は、古くは、ヒスパニック社会ではコロンと呼ばれていたが、米国開拓者達はアスピンウォール・タウンと呼んでいた。アスピンウォールはパナマ鉄道建設に携わった米国人である。

 街中には、彫り込みもない石塔モニュメントがひとつある。それは、アスピンウォール、ステファン、チャウンセイなど、熱帯開発に命を捧げたさまざまな国籍の人々数千人の中での、コロン創設者達の記念碑である。地峡開発や運河建設に従事した開拓者達の多くを死に至らしめた黄熱病やマラリアについての対策や治療法が確立する以前に犠牲となった人々の記念碑である。

 コロン市は、もともと亜熱帯の湿地帯だったところに設けられた。ウイリアム・C・ゴーガスが、運河建設に携わる労働者の衛生対策を確立するまで、瘴癘の地として悪名高く、黄熱病など熱帯特有の病気にたびたび苦しめられた。

 コロン市の1900年の人口は約3千人、それが運河建設時、31,000人以上に急増した。

 1953年、自由貿易地域を設定し、世界で二番目に大きい免税港である。1960年代後半以降、経済は下降傾向にあり、失業率も約40%。低所得層が多く、一説によると「中米一治安が悪い町」とのうわさもある。
コロン市は、現在ではパナマ運河の玄関口であるだけでなく、商業センター、観光客の拠点としても重要な位置を占める。雨上がりの中心街の古びたスペイン風建物群は、うらぶれた熱帯植民地市街地の映画オープン・セットのようで情緒がある。

 「コロン市内やクリストバル港では、路上強盗が昼日中でも頻発している。港を出たら、どこへ行くにも徒歩でなくタクシーを使い、買い物をすべきである」という現地情報もある。

 トパーズ号乗船者の中でもカメラやバッグを取られるという事件が発生した。筆者はオバサン・グループを案内して中心街でのショッピングを楽しんだが、スーパーの品物はカラフルで豊富、しかも安い。帰路、カフェでコーヒーを飲んで往路と違う道を歩き出したら、観光警察官が巡回中。後ろから追いかけてきた見知らぬ男が、英語とスペイン語で、そっちの方は危険だから、戻れ、戻れと親切に大声で叫んでくれたので、あわてて、引き返すというハプニングもあった。

 パナマ政府による港湾業務の民営化推進政策で、1992年から英国投資のコンテナ港、台湾の海運会社エバーグリーン投資によるコンテナ港の建設工事が始まった。1997年から香港の港湾開発会社ハッチンソン国際ターミナル社(中国本土資本)によるコンテナ港開発工事も開始された。中国本土と台湾の熾烈な外交・経済戦争の最前線ともなっており、中米における一大コンテナ物流基地に発展してきた。

 1994年、パナマ・米国合弁のマンサニーリョ・ターミナル・パナマ社が、コロン自由地域に隣接するココ・ソロ地区にコンテナ港を開設、月間16,000個のコンテナを取り扱っており、時間当たりの取扱量は平均28個で、世界的な水準にある。*1

 外国資本による港湾物流施設の建設と運営が続々と始まったが、日本勢はなぜか出遅れている。

3. パナマ運河の歴史概略

 パナマ運河は、スエズ運河建設の成功を勢いに、フェルディナン・ド・レセップスが、1879年の第一回目の資金集めの際、80万株中74万株が売れ残り失敗、1880年12月の第二回目で、株式募集の大成功により資金を確保し、10余年を掛けて、海面式運河(スエズ運河と同方式)の建設を始めた。しかし、度重なる苦難に遭遇、資金難と建設労働者の疫病による多大の犠牲を出して、挫折。その後を引き継いだ米国は、1903年のパナマ建国直後、パナマ新政府との間で運河条約(ヘイ−ビュノオ・バリリャ条約)を締結し、運河地帯(運河の中心から両側5マイルずつ(幅16km)の永久租借権及び運河の建設・管理権を獲得、閘門式運河の建設に着手、10年の歳月を経て、1914年に完成させた。パナマ運河を最初に通航した船は、米国貨物船アンコン号、1914年8月15日であった。

 大西洋と太平洋の最も狭い陸地(地峡)に位置するこのパナマ運河の開通により、二十世紀の世界経済及びビジネスの発展に多大の貢献をしてきた。米国東海岸のニューヨークと西海岸のサンフランシスコ間は,南米大陸先端のホーン岬を経由すると、13,000海里、パナマ運河経由で5,260海里と40%に短縮され,北アメリカの東岸と西岸を結ぶルートとして大きな役割を果たしている。米国東海岸からパナマ運河を通航して日本に向かう貨物船も、約4,800kmの航路短縮になる。

 1977年9月、米国とパナマ両国は、パナマ運河条約、パナマ運河の永久中立と運営に関する条約及び付属議定書(全ての国に開放)からなるパナマ運河新条約に署名、1979年10月、条約は発効した。この条約に基づいて、1999年12月31日正午をもってパナマ運河がパナマ政府に返還された。それに伴い、パナマ駐留の米軍も1999年12月1日までに撤退、基地等関連施設がパナマ政府に移管された(返還地域は約14万ha)。

パナマ運河新条約に大統領として署名したカーター元大統領が米国側代表として出席したパナマ運河返還式典が、1999年12月14日、パナマ運河太平洋側玄関口近くのミラフローレス閘門前で開催された。

 それに先立ってパナマ政府機関として、1997年6月成立のパナマ国法に基づいて設立されていたパナマ運河庁(ACP*)に、運河の運営が2000年1月1日より引き継がれて現在に至っている。

*Autoridad del Canal de Panama(西語)、The Panama Canal Authority(英語)

4.パナマ運河通航

4.1運河方式

 パナマ運河は大西洋と太平洋の間、北米大陸と南米大陸の最も狭い鞍状の地峡、約80kmを結ぶ閘門式運河である。

 閘門式運河とは、前後を閘門で仕切られた水槽の水位を上下させ、次の水槽の水位と一致したところで閘門を開け、船舶を前進させる、ということを繰り返して、船舶を"パナマの背骨山脈を越えさせる"運河の方式である。この水槽の水位を上下させるために動力によるポンプなどは一切使っていない点がパナマ運河の特徴。ガツン湖の湖水を利用する重力だけでシステムすべてが運用されている。ガツン湖から閘門の開閉により階段状に落ちてきた水は最後には海に流れてしまう。ガツン湖には、周囲の山々の森林から絶えず新しい水が供給され、ガツン湖の水位は常に一定に保たれるようにする。このためにダムによる貯水の仕掛けもなされている。ガツン湖から流出する水量とガツン湖に補給される水量のバランスを考えた絶妙な設計コンセプトである。閘門を開閉させることにより、水位の上昇あるいは下降させて、海抜26mのガツン湖と地峡の分水嶺を開削したゲイラード水路上に船舶を通航させて、大西洋から太平洋へ、あるいはその反対側へ通航させる。

 パナマ運河通航船舶の最大許容サイズは、船幅32.3m、長さ294.1m(船のタイプによる)、水深12mとなっており、パナマ運河を通航することのできる最も大型の船舶のことを「パナマックス船(Panama maximumの合成語)」という。このサイズ以内の船舶で、ばら積み船の場合は載貨重量トン(D/W)が6万〜6万8千トン級の船舶を指す。

 各閘門には、その地域の地名が付けられており、大西洋側はガツン閘門(3段階)、太平洋側はペドロミゲル閘門(1段階)とミラフローレス閘門(2段階)が設けられている。

 閘門で仕切られる水槽の寸法は幅33.5m、長さ305m、3段階で26m上昇もしくは下降させる。各閘門(水路)は二列である。ガツン閘門の場合、これに490mの進入壁が付いて、全長1.9km。

4.2 閘門オペレーション

 パナマ運河全体の水路概観と3ヶ所で二列に並ぶ各閘門のオペレーションがどのように行われるかについては、パナマ運河庁HPの「運河がどのようにオペレーションしているか」*にアクセスすると、簡単な動画面で、容易に分かるようになっている。

*How It Works

http://www.pancanal.com/eng/general/howitworks/index.html

 そのHPは三つの項目で構成されている。

◇通航(Transit)

 大西洋側のコロン市クリストバル港から船舶が先ずガツン閘門で3段階、海抜26m昇る。ガツン湖内を通航して、脊梁山脈を掘削したゲイラード水路を航行する。このゆるい曲線の水路を過ぎてペドロミゲル閘門で先ず1段階降下、次いでミラフローレス湖に入り、ミラフローレス閘門で2段階降下、太平洋側バルボア湾に出るまでが動画で示される。

◇オペレーション(Operation)

 各閘門断面が示され、水槽の水位操作が動画で示される。

◇寸法(Dimensions)

 閘門の寸法(長さ、幅、深さ)と通航可能船舶の許容寸法(船幅、船の全長、吃水)が示されている。

 パナマ運河の運営には約九千人が従事しており、24時間、365日操業である。船舶の運河通航平均時間は約9時間。

 様々なエピソードのうちの三つを以下に紹介する。

 1979年6月、米国海兵隊の水中翼船が太平洋側から大西洋側に抜けるのに、2時間41分かかった。これがパナマ運河最短時間通過記録である。

 ヨットの通航も可能である。ヨット「ボヘミアン2」で愛知県西浦港を出航して単独世界一周航海をした渡辺起世氏は、1991年1月29日に、パナマ運河を通航した。その通航料金は120ドルであった。意外に安い料金だ。

 パナマ運河庁HPには歴史的な建設現場写真や現地中継映像などにアクセスできるが、米国海軍戦艦ニュージャージーがその最終航海でミラフローレス閘門を通過する迫力ある映像*も見られる。

*http://www.pancanal.com/eng/photo/jersey-animation.html

 戦艦ニュージャージーは、1942年12月、フィラデルフィア海軍造船所で進水、翌年5月、就役、第二次世界大戦に参加。その後改装を繰り返して再就役していたが、1999年9月12日、最終航海に出て、10月18日、パナマ運河を通過した。戦艦ニュージャージーは、船幅32.4m、全長266.4m、喫水11.4m、4万5千トンである。

 同艦が太平洋側からミラフローレス閘門に進入し、ミラフローレス湖に入り出て行くまでが、動画で見られる。同艦は11月11日、フィラデルフィア海軍造船所に帰港、2年後の2001年10月、博物館/記念館として復活し、一般に公開されている。

 パナマ運河を利用する船舶は、年間13,000〜14,000隻、一日平均37隻。世界貿易貨物量の約5%がパナマ運河を通じて輸送されている。

 大西洋側から入る船舶はクリストバル防波堤のあるリモン湾から水路に入る。運河水路の海水位部分のアプローチの距離は約10km、水路の幅は約150m。

4.3 通航開始

 4月5日、トパーズ号は、午前6時、クリストバル港クルーズ・ターミナル第6番埠頭を離岸、パナマ運河水路へと進む。ガツン閘門が遠く朝靄の中に照明灯で見える。先行の船舶が2列ともガツン湖へ向かって閘門の中を上昇中である。

 トパーズ号がガツン閘門に近づいていくと、入れ違いにガツン閘門から出て大西洋に出て行く2隻の船舶とすれ違った。

 いよいよ、ガツン閘門の進入壁が近くなる。2隻のタグボートがトパーズ号の前後についてガツン閘門へと誘導する。タグポートから閘門進入壁端両側に待機中の電気機関車にバトンタッチされる。曳航ワイヤーがトパーズ号の船首と船尾に接続されて、電気機関車片側2台、計4台、平均時速8kmで曳航される。この電気機関車は当初米国製であったが、40年ほど前から日本の三菱商事/東洋電機/三菱重工により納入されたものが活躍している。2年ほど前から、その更新のための新型機関車の納入が始まり、順次新しい機関車の導入が進む。


図−2 パナマ運河第T区 ガツン閘門に近づく

 船舶はガツン閘門で、三つの水槽により3段階で26m上昇する。トパーズ号の船幅は27m、長さは195m、ガツン閘門の水槽のサイズには十分の余裕である。

 しかし、トパーズ号に続いて平行する隣の閘門に入った大型の6万トン級の自動車運搬船は、船幅が水槽の幅ギリギリで、水槽の水位が微妙に不均等に上昇すると、水槽側壁に接触して鈍い音をだす。

 トパーズ号デッキ上で、筆者の隣でガツン閘門通過を見物していた船長体験者が、閘門通過時に彼の船が水槽の側壁に接触した様子を話してくれた。ガツン閘門だからというわけではないが、ガツンという相当の衝撃を体感するそうである。パナマ運河内では、船舶は水先案内人の指示で通航するので、船舶に損害が発生すれば、水先案内人側が補償するという保険条項があるのだそうだ。実際は、軽微な損傷の保険処理に時間を取られて、船舶の運航日程を遅らせるわけにはいかないので、保険を請求するという手続きは取らず、当り損であるという。

4.4 ガツン閘門通過、ガツン湖に入る

 午前7時30分、トパーズ号はガツン閘門第1ステップに入り、第2ステップ、第3ステップを出て、ガツン湖に入ったのが、8時45分、1時間15分でガツン閘門を通過した。

 ガツン湖に入ると、右側(西側)にガツン・ダムが見え、前方にガツン湖が広がる。

 これはガツン閘門に隣接するシャグレ川にダムが造成されてできたダム湖である。ガツン閘門出口からゲイラード水路の北方までの距離は約38km、湖水面積約425km2。

 ガツン・ダムは、1913年、ガツン閘門と西側に位置する丘陵地帯に建設された。余水吐きが建設された谷の中心部にはスピルウエイ・ヒルがある。ガツン閘門からスピルウェイ・ヒルの間はアースダムとなっており、余水吐きダムはスピルウェイ・ヒルを開削して建設された。ダムの向こう側スピルウェイ・ヒルから西側の丘陵地帯へとアースダムの堰堤が約2,460mも伸びている。スピルウェイの両側は水締め盛土工法のアースダムである。ダム底部幅は約800m、堤長部は約30m、海抜約31m、ガツン湖の通常水位より約6m高くなっている。


図−3 後続の船舶がガツン閘門に近づいてくる


図−4 ガツン閘門を出てガツン湖に入る


図−5 ガツン・ダム堤長部を遠望

 ガツン湖は貯水で自然にできた22ヶ所の鞍状ダム、人工のアースダム5ヶ所(ペドロミゲル鞍状ダム、ガツン湖と第3閘門掘削の間の第3閘門掘削堤を含む)で構成されている。

 トパーズ号はガツン湖に入ってしばらくすると停船する。先行の数隻も停船している。これは、太平洋側から通航してくる船舶の通過待ちである。
2時間近く過ぎてトパーズ号を含めた太平洋に向かう船団がようやくゲイラード水路に向かって航行を開始する。途中、浚渫船が2隻、排水パイプラインを連ねているのが遠望できた。


図−6 ガツン湖内 浚渫船が水路掘削中

つづく