<連載> 世界二大運河通航記 スエズ運河編(4) 阿部 賢一 2006年2月7日 |
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2001年11月14日、ムバラク大統領がスエズ運河を横断する世界最長の旋回径間橋エルフェルダン橋の開通式典に出席した。この鉄道橋は同じ場所に1920年に最初に架橋されて以来、5度目に建設されたものである。この鉄道橋の完成は、シナイ半島の今後の安定と成長する経済的重要性を認識しているエジプト政府の自信を内外に示すものである。スエズ運河拡幅のため、記録破りの340mの支間長を必要としたが、砂漠の環境に適合した構造的な単純さと操作の強靱性に力点が置かれた構造物である。
設計と施工は国際コンソーシアムによって行われたが、現地業者も参加した。 英国ハークロー社が5年以上にわたり、技術アドバイザーのトップとなり、エジプト国営鉄道の要請に応えて、世界で最も交通量が多く重要な船舶通路の一つであるスエズ運河を横断する鉄道橋してシナイ半島の鉄道網を再建するために、設計から施工、操作運転に至るまでの業務を行った。 二つの旋回橋梁(鋼鉄重量13,200トン)がスエズ運河上で連結されて鉄道車両が通過するのはまさに壮観であると思われるが、残念ながらこちらが運河通行中ではそれも不可能である。早朝に列車の通過があるようである。クルップ・ベシックス・オラスコム・コンソーシアムがこの鉄道橋の詳細設計と施工を担当した*9。 エルフェルダン橋は、シナイ半島にリンクする鉄道最大のプロジェクトであり、その実現は40年来のエジプトの夢でもあった。 1956年7月、ナセル大統領はスエズ運河の国有化を宣言した。これに対して、英国、フランス両国は反発し、イスラエルとともにエジプトを攻撃した。いわゆる第二次中東戦争の勃発である。このため、同年10月、エルフェルダン橋が破壊された。1962年になって、同じ場所にまた鉄道橋が建設された。 ついで、ゴラン高原におけるユダヤ人入植地の建設を巡ってアラブ側とイスラエルとの間で緊張が高まりつつあった1967年6月5日、第三次中東戦争勃発、これらの経緯についてはすでに述べた。 この第三次中東戦争により、この鉄道橋は再び破壊された。 今回建設された鉄道橋は、世界最長の鋼製旋回径間橋であり、橋長640m、支間長320mである。常時は開橋しており、朝夕だけ閉橋して鉄道を通す。本来は鉄道橋であるが車両も通れるようになっている。この旋回橋の完成によっても、巨大船舶の通航には何の支障も生じない。 この鉄道橋は、カイロを始発とし、イスマイリアからアル・アリシを経由して、ラファ及びガザ地区まで225kmを結ぶ鉄道路線でスエズ運河を横断するために建設されたものである。 新エルフェルダン橋架橋計画はシナイ半島開発国家プロジェクトが1994年の閣僚会議で承認されたときに組み込まれたプロジェクトである。このシナイ半島開発プロジェクトは、2017年にまで及ぶ壮大な計画で、ナイル河峡谷とシナイ半島の間のスエズ運河の両岸をつなぎ、シナイ半島の農業、産業及び都市開発にとって重要な旋回橋であると位置づけられている。 とりわけ、アルサラム灌漑運河の掘削によりシナイ半島50万フェダン*、約21万町歩の農地耕作にとって重要なものとなっている*10。 *エジプトの土地面積1フェダン=1.038エーカー) 12. バッラ・バイパス(EL Ballah Bypass) エルフェルダン鉄道橋地点を通り過ぎると、バッラ・バイパスに入る。 イスマイリア市とアルカンタラ市の間に位置するバッラ・バイパスをしばらく航行すると二つの水路に分かれており、その先にムバラク平和橋の雄姿が望見できる。本船はまっすぐムバラク平和橋に向かって直進していくが、本船左舷側の待機泊地用水路には、ポートサイドから航行してきた貨物船八隻が係船索(ロープ)で運河岸壁のビットに固定されている。 本船トパーズ号を含めたスエズ湾から運河を航行してきた船団は停船することなくムバラク平和橋に向かってどんどん進んでいく。待機泊地用水路が合流すると眼前にはシネマスコープ画面のように広がるムバラク平和橋の巨大構造物に本船デッキ上の乗客から一斉に歓声が上がる。 本船は14時30分、ムバラク平和橋の下を通過する。 運河の水面から橋桁底部までは70m*、50万トン級タンカーの通航や、巨大な石油リグの通過を想定したのであるという。この橋の中央部分のガードフェンスには、日本とエジプトの国旗が描かれ、旗の間で双方からのびた手が握手する記念プレートがはめ込まれている。 *横浜のベイブリッジは55mである。 13. ムバラク平和橋(Mubarak-Peace Bridge) 現地エジプトではムバラク平和橋*11といっているが、日本側は日本・エジプト友好橋*といっている「世界最大級の斜張橋」である。 *The Suez Canal Bridge, Peace Bridge, Japan-Egypt Friendship Bridge, Egyptian-Japanese
Friendship Bridge
1994年、エジプト政府はスエズ運河の東側に広がるシナイ半島の開発計画を決定し、最優先政策として進めてきた。同国の高い人口増加率と経済負担に対処するためシナイ半島の農業、鉱工業、観光資源を開発し、2017年までに、320万人が住む居住区にしようという計画である。しかし、本土と同半島間の行き来はフェリーとトンネルに頼らざるを得ず、増加が予想される交通量に対処できなくなる。 工事は日本政府の無償資金協力135.7億円(60%)とエジプト政府が90億円(40%)をそれぞれ負担するという無償資金協力案件では初の共同事業だった。この工事の道路全長9km、そのうち、取り付け道路部分が5km、斜張橋部分が4km、片側二車線、合計4車線、道路勾配3.3%の斜張道路橋である。二つの鉄筋コンクリート構造のパイロン(橋の主塔)の高さは153m、ギザのクフ王のピラミッドと同じ高さである*。 *インターネットで調べると、当のクフ王ピラミッドの高さは完成時146.6m、現在は上部の約9mを失い、137.5mという数字が大勢を占める。参考までに、横浜ベイブリッジの主塔の高さは海面上175m。 その形状は古代エジプトの記念碑オベリスクを模したものであるという。主径間は404m。橋は主橋梁と取付橋梁、そして橋への連絡道路の大きく三つの部分に分けられる。日本側が主橋梁と取付橋梁の約四割を占める高さ49.5m以上となる高架橋(中央工区)を、そして、エジプト側が両岸の既存道路と接続する連絡道路と取付橋梁の約六割の建設を担当した。 施工監理は、全工区を、無償資金協力による日本側コンサルタント(パシフィックコンサルタンツインターナショナル・長大の共同企業体)が行った。施工は、日本が担当する中央工区を鹿島、NKK、新日鐵のコンソーシアム、両岸二つの工区をエジプトの建設会社が担当した。 工事には、最盛期、一日に中央工区で約一千人、両岸の工区七百人もの建設関係者が作業に当たった。 遅れ気味だったエジプト側担当工区も日本側工区に追いつき、橋は当初計画されていた日からたった三日間の遅れであったが、40ヶ月間の厳しい工期で完成した*12。 2001年10月9日、現地で開催された開通式にはエジプトのムバラク大統領、日本からは橋本特使(元総理)ら要人多数が列席し、斜張橋の完成を祝った*13。 ムバラク平和橋開通二周年記念イベントとして、2003年12月2日、エジプト政府観光省主催で「平和橋マラソン」が開催され、日本からは女子マラソンの谷川真理、エジプトから約百名のマラソンランナー、そして当地アルカンタラに集まった日本人観光客80人が参加した。参加者たちは平和橋を2km走った後、全員パピルス紙のマラソン完走賞状を受取った。 ODA経済協力 対エジプト無償資金協力供与実績 スエズ運河架橋関係
出典:在エジプト日本大使館資料*2 ムバラク平和橋を通過して約2km近くポートサイド方面に進むと、フェリー桟橋二カ所あり、トラックが2〜3台待ちの状況であり、本船が通過すると、すぐに両岸からフェリーが対岸に向かって動き出した。 フェリーは、大型トラックが一台やっと載るほどの小型なものだが、大活躍である。それに比べてムバラク平和橋を通る車はほとんどない。本船通行中にようやく一台のトラックがシナイ半島側からアルカンタラ方面へ走行するのが見えたが、そのトラックがおもちゃ模型のように小さく見えて、橋の巨大さを実感した。 |