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秩父を再び訪れて感じたこと

池田こみち
20 September 2010
独立系メディア「今日のコラム」
無断転載金


 連休の中日(2010年9月19日、日曜)、予想通り関越の下りは混んでいた。私たちはすぐに一般道に下りて秩父を目指した。3時間ほどで秩父の中心部にある銘仙館にたどり着いた。

 さっそく、銘仙館の案内をしてくれる方に持っていた着物と羽織を見ていただいたところ、「これは秩父銘仙に間違いありません。洗い張りして裏返しにすればまた綺麗に着れますね。」と、鑑定をしてくださった。

 銘仙館の奥には、織機が何台も並べられた実習室があり、二人ほどの女性が機織りに取り組んでいる様子だった。訪れる人はほとんどいないひっそりとした銘仙館。地域の産業に支えられた伝統工芸がすっかり顧みられなくなっている様子はとても寂しいものである。


織機が何台も並べられた実習室
撮影:鷹取敦  2010.9.19

 せめて、友人から受け継いだ秩父銘仙の着物と羽織はこれからも大切にしていきたいと思う。派手で着れなくなれば御座布団の側やはんてんに生まれ変わって暮らしに彩りを添えてくれることだろう。

 2009年12月に「秩父事件の現場」を訪ねようと思い立って秩父を訪れて、その自然のすばらしさと歴史、文化の重みに強い衝撃を受けた。

 今回はその時に立ち寄れなかった石間交流学習館を訪問すること、そして、この夏に相次いで遭難者を出した奥秩父の雁坂トンネル付近の自然を確認することを目的に二度目の秩父訪問となった。

 ついでに、秩父銘仙館にも再度立ち寄り、友人から譲り受けた銘仙の着物と羽織を持参して、それが「秩父銘仙」であるかどうかを鑑定して貰うことにした。


友人から受け継いだ秩父銘仙の着物
撮影:鷹取敦  2010.9.19

 銘仙館を後にして、下石田から吉田石間地区に向かった。石間交流学習館は平成13年頃までは地区の小学校として子供たちの声が山間に響いていたようだが、その後、全国の中山間地の学校と同様に、人口減少のために統廃合が行われ、現在は、農山村生活様式の体験学習の場として、また、秩父事件の歴史をわかりやすく解説し資料とともに展示する場として活用されている。


石間交流学習館
撮影:青山貞一  2010.9.19


石間交流学習館にて
撮影:青山貞一  2010.9.19

 下は養蚕の中心地、石間集落の貴重な写真です。急傾斜地の山の斜面の養蚕農家が張り付いていることがわかります。交流館からもう少し上に上がった沢戸(さわど)という集落でその昔撮影した写真です。

 急な斜面を切り開いて畑を作っている風景が珍しいとのことで、絵を描いたり写真を撮りに訪れる人がいるとのことで今でも30戸ほどが暮らしているそうです。


石間集落のさらに上の沢戸(さわど)の貴重な写真
撮影:池田こみち

 秩父事件の農民蜂起には、ここ吉田地区から大勢が参加したこともあり、関係者のお墓や生家跡なども多く残るこの地に資料館が造られたものと思われる。

 山深い、交通も不便なこの場所で当時の様子に思いを馳せることによって一層当時の人々の暮らしを理解し、気持ちをよりよく理解できる、と改めて感じた。学習館を案内してくださった地元のお年寄りは、「当時のリーダーたちは、みんな生活に苦労のないお金持ちの人たちだった。

 そういう人たちが貧しい農民のために先頭に立って闘った。今はそういうことはまず起きない時代になりましたね。」としみじみ話されたのが印象的だった。

 その後、私たちは一路奥秩父の雁坂峠に向かった。そこはついこの夏、シルバー世代のハイカーが遭難したことをきっかけに、救助隊、テレビ局の取材クルーなどが連鎖的に遭難したエリアである。


国道140号線の雁坂橋遠望
撮影:池田こみち 2010.9.19


国道140号線の雁坂橋にて
撮影:池田こみち 2010.9.19


国道140号線、豆焼橋上の鷹取(左)、池田(右)
撮影:青山貞一  2010.9.19

 埼玉県・山梨県・群馬県が接するこの地の山は想像以上に険しく、谷は深く厳しいものだった。豆焼橋からすぐの林道の入り口には、亡くなった方々のための花束が供えられていて、まだまだ悲劇の傷跡が癒えない地であることが胸に迫ってくるようだった。豆焼橋から谷を覗き込むと荒川源流の清らかな流れがあったが、一度天候が変われば、人を寄せ付けない自然が牙をむくことになる。


遭難した日テレ社員に花束が供えられていた(林道にて)
撮影:青山貞一  2010.9.19

 都会の喧噪を離れ自然を楽しみたい、自然に親しみたいのはよく分かるが、決して自然を舐めてはいけない、つねに畏敬の念をもって接することの大切さ、を改めて感じさせる秩父の山々だった。