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真夏の上信州、歴史探訪

〜碓氷峠の熊野皇大神社〜

青山貞一  池田こみち
掲載月日:2011年8月20日
 独立系メディア E−wave
無断転載禁


●碓氷峠の熊野皇大神社
 
 見晴台の次は、熊野神社である。正式には、熊野皇大神社という。

 熊野神社は全国各地にあり、私たちの北軽井沢別荘の北にある嬬恋村門貝地区にも小さな熊野神社がある。以下は、2010年夏に書いた門貝についての論考だが、そこでも熊野神社について触れている。以下は上のブログからの転載である。

◆熊野神社とは

 熊野神社は、熊野三山の祭神の勧請を受けた神社である。同名または熊野社・十二所神社など類似の社名の神社が全国各地にある。

 熊野神社は熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の祭神を勧請された神社のことである。熊野詣の盛行や有力者による荘園の寄進、熊野先達の活動により全国に熊野信仰がひろまったことにより、全国に熊野三山の祭神を勧請した神社が全国に成立した。熊野三山の祭神たる熊野権現は、その主祭神である熊野三所権現だけでなく、十二所権現をも含んでいる。全てを含めて熊野神社とした場合、その数は三千余に達するという。

 熊野神社を本社とする信仰は、平安時代の末から盛んとなったが、その頃、熊野は山岳に籠って修業することを目的とする修験道の霊場としても知られていた。また、その信仰は、熊野御師(山伏)とされる人たちによって、各地へと広められたという。門貝の地は、まさに山岳に籠って修行する山伏にぴったりの場所であったと言える。

 歴史上、熊野の地名が最初に現れるのは日本書紀の神代記で、神産みの段の第五の一書に伊邪那美命が死んだとき熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)というところに葬られたという記述があるように近畿地方である。

◆青山貞一・池田こみち:真夏の嬬恋村探訪 D山伏の拠点、門貝の熊野神社


 まず最初に神社による自己紹介から。

 当神社は碓氷峠頂上 標高1200mに位置し、自然豊かな軽井沢に鎮座する唯一の神社です。また、当神社は、全国的にも珍しい県境、お社の中央で長野県と群馬県に分かれた神社です。ですので、一つの神社でありながら2つの宗教法人がけんざいし長野県熊野皇大神社と群馬県熊野神社に分かれております。その為、神社をお護りする宮司も2人おりそれぞれ神社のお祀りを行っており、御祈祷・お守り・社務所も別になっております。 当神社は長野県、軽井沢の氏神、長野県熊野皇大神社であります。



 その熊野神社の位置は、碓氷峠であり正確には軽井沢町がある長野県と群馬県の安中市の境界線上に位置している。神社の半分が長野県、半分が群馬県である。

 碓氷峠は上州と信州の国境(県境)にあり、熊野神社はまさに碓氷峠の中心にあるわけだ。万平ホテルから見晴台までは国道133号線を登るが、見晴台から熊野皇大神社には、徒歩で5分で行ける(以下の地図参照)。


軽井沢の見晴台と熊野神社の位置


撮影:青山貞一


撮影:青山貞一


撮影:青山貞一


撮影:青山貞一

 
熊野皇大神社の歴史は非常に古い。それは「古事記」「日本書紀」の伝承にまで遡っており、日本武尊が建立したと伝わる古社である。


これは神門
撮影:青山貞一


撮影:青山貞一

 上の写真で、群馬県側(右側)に鎮座されるのが「新宮」(祭神: 速玉男命)、また県境に鎮座されるのが「本宮」(祭神:伊邪那美命・日本武尊、さらに長野県側に鎮座されるのが「那智宮」(祭神:事解男命)になる。


撮影:青山貞一

 熊野皇大神社には、後述するように境内に樹齢800年といわれる御神木のシナノキがある。追分節にうたわれた石の風車や、室町時代中期の作と伝わる狛犬、山口誓子句碑など様々な見所がたくさんある。


撮影:青山貞一

 この神社には、境内にシナノキがある。現在、このシナノキは長野県の天然記念物に指定されているが、樹齢は何と850余年と伝えられている。またこのシナノキが長野県をして信濃(しなの)と呼ぶ語源となったされる説も宮司から伺った。さらに境内の端には碓氷川の水源があり、近隣の人々が飲料に用いてきた。


熊野皇大神社の境内にある樹齢850余年のシナノキ
撮影:青山貞一

 下は室町時代中期の作と伝えられ、長野県内では一番古い狛犬である。


長野県内では一番古い狛犬
撮影:青山貞一



●熊野皇大神社の社家

 熊野皇大神社の社家は、社家が上州と信州の二つの国に分れていたためいろいろな争論があった。

 たとえば、1662年(寛文2年)には信濃側(長野県)の神宮寺が上野国(群馬県)の社人に無断で国境を越えて小屋を設けたため、その取り消しを求める裁許が下された。また1664年(寛文4年)には三所権現は両国の社人が相談して守護する。

 その結果、新宮は上野、那智社は信濃の社人が守護する。本宮は両国の社人が1年交替で守護し、当番でない年でも神事や祭礼を勤める。との裁許状が出された。

 1716年(享保元年)には両国にまたがる権現の森の立木を伐採した社人が罰せられている。社家の中では神主と禰宜の区別がなく、氏子に牛王宝印を供与したり初穂を受取るなどして生計をたてていた。なお、宝暦年間には両社家の間で通婚も行なわれている。


撮影:青山貞一

上図の詳細説明


本殿三社(中央左:信濃国、中央右:上野国)
撮影:青山貞一


社務所
撮影:青山貞一


撮影:青山貞一


撮影:青山貞一

●神社の名称について

 かつては長倉神社熊野宮または長倉山熊野大権現と称したが、神社の社地が信濃と上野の国の境界となり、上野国も入ったため熊野宮と名称が短くなった。

 また碓氷神社、熊野大権現とも呼ばれたが、1868年(慶応4年)に熊野皇大神社に改称したという。

 第二次世界大戦後に宗教法人法が制定された際、都道府県ごとに宗教法人の登記がされることになったため、ひとつの神社でありながら県境を挟んで、長野県側が熊野皇大神社、群馬県側が熊野神社という別々の宗教法人となった。そのため、一つの神社だが、宮司や社務所、賽銭箱、お守り、ご祈祷は別々である。

●熊野皇大神社の歴史

 社伝によれば、ヤマトタケルが東征の帰路で碓氷峠に差し掛かった際、濃霧が生じて道に迷った。この時に一羽の八咫烏が梛の葉を咥えて道案内をし、無事に頂上に着いた事を感謝して熊野の神を勧請したのが熊野皇大神社の由来だとされる。

 他方、古代の東山道は当社の南方の入山峠を通っていたと考えられ、中山道にあたる新道が開通した時に現在地に遷座したという説もある。

 1292年5月3日(正応5年4月8日)に松井田一結衆が奉納した鐘には「臼井到下今熊野大鐘事」とある。なお1354年(文和3年)に奉納された多重塔に「当社権現」と刻される事などから、神仏混淆の両部を備えており、神宮寺や仁王門もあったとされる。神宮寺は後に軽井沢に移転したという。

 江戸時代は中山道の要所にあることから賑わい、1695年(元禄8年)には越後高田藩主・松平定逵の通行の際には吉例祈祷をして初穂料として金100疋を奉納されるなど、大名の中山道通行の際に祈祷を行なう事もあった。

 また上州で武術が盛んなことから各流派による額の奉納も多く、1826年(文政9年)に気楽流の飯塚臥龍斎、1831年(天保2年)に真神道流柔術の片山庄左衛門、1845年(弘化2年)には日置流弓術の酒井数馬が、それぞれ奉納を行なっている。

出典:Wikipedia

 境内にはいくつかの社宝がある。



@古鐘(左)
鎌倉時代(正応5年:1292年)に松井田町の武士団によって「二世安楽=即ち現世と幽世の両方の世界での幸せ」を祈願して奉納された釣鐘。現在、群馬県最古の釣鐘として「県重要文化財」に指定されている。

A石の多重塔(右)
南北朝時代(文和3年:1354年)に、やはり「二世安楽」を願って建てられたもの。現在、六重であるが、天明3年(200年位前)の浅間山の大噴火による灰の堆積等で崩れ、上部の一石が紛失したと云われ、本当は七重とのこと。武蔵野戦にて亡くなった武士の遺骨を納めたと伝えられる。


●信濃国、十三社巡り

 熊野皇大神社でいただいたパンフレットに信濃国、十三社巡りがあった。以下はその十三社である。

 私(青山)は田中知事のとき、長野県庁に特別公務員として大学と兼務で勤務していたこともあり、おおくの長野県の寺社仏閣にでかけている。熊野皇大神社が最後の13社目にある。

若一王子神社 長野県大町市大町2097
穂高神社 長野県安曇野市穂高6079
長野縣護国神社 長野県松本市美須々6-1
四柱神社 長野県松本市大手3-3-20
深志神社 長野県松本市深志3-7-43
諏訪大社上社本宮 長野県諏訪市大字中洲宮山1
諏訪大社上社前宮 長野県茅野市宮川字前宮2062
諏訪大社下社秋宮 長野県諏訪郡下諏訪町5828
諏訪大社下社春宮 長野県諏訪郡下諏訪町193

手長神社 長野県諏訪市茶臼山9556
御嶽神社 長野県木曽郡木曽町三岳黒沢6687
御嶽神社 長野県木曽郡王滝村3315
戸隠神社中社 長野県長野市戸隠中社3506
武水別神社 長野県千曲市大字八幡3012
生島足島神社 長野県上田市下之郷中池西701-甲
熊野皇大神社 長野県北佐久郡軽井沢町大字峠町字碓氷峠1

 黄色い部分は訪問した神社である。

 熊野皇大神社参拝の後、碓氷峠にある茶屋で名物の力もちをいただく。3種類ありどれも美味しかった!




つづく