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羽柴秀吉・蒲生氏郷

そして千利休
 
青山貞一


掲載日:2014年9月10日
独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁



 以下の論考の主な出典はWikipediaです。

 日曜日のNHKの大河ドラマ軍師「黒田官兵衛」では、秀吉、家康、利休が茶室で話会う場面があります。その理由は、利休は茶の湯など文化だけでなく、官兵衛同様、戦国時代における政治、戦略にたけているからです。

 しかし、それがひとつの理由となりのちに秀吉に切腹を命じられました。今年は利休没後、424年となります。

  大河ドラマ「黒田官兵衛」で秀吉は、九州全体の制定に引き続き、今後、全国の諸大名を佐賀県北部の岬名護屋地域に集め、名護屋城を築城するとともに、諸大名はそれぞれ城のそばに陣を張ることになります。


浅野文庫所蔵 諸国古城之図   出典:Wikipedia

 秀吉はその後、信長同様、永年の夢を実現し、数度にわたり朝鮮半島に侵攻、侵略することになります。

 名護屋に全国から集められた大名、武将は以下の通りです。

 生駒親正陣   上杉景勝陣   片桐且元陣   加藤清正陣
 加藤嘉明陣   木下利房陣   木下延俊陣   木村重隆陣
 九鬼嘉隆陣   黒田長政陣   小西行長陣   島津義弘陣
 伊達政宗陣   徳川家康陣   徳川家康別陣  豊臣秀保陣
 鍋島直茂陣   長谷川秀一陣  福島正則陣   古田織部陣 
 堀秀治陣     前田利家陣   毛利秀頼陣

 名だたる戦国武将が参集します。その中には黒田官兵衛の長男、黒田長政もおります。各武将がどこに陣を張ったかについては、グーグルマップからでもある程度分かります。

 下の地図を見ると、おもだった武将の名前が読み取れます。九鬼嘉隆陣、上杉景勝陣、徳川家康別陣堀秀治陣福島正則陣、加藤清正陣などが読み取れますが、それらは現在、名護屋地域に陣跡が現存することを意味しています。

 現在、城跡及び陣跡は、名護屋博物館からトレッキングしながら視察できるようになっています。


出典:グーグルマップ

 名護屋城という秀吉の居城とともにやその周りには、全国大名の陣には、茶室がつくられ、同時に現在の唐津、伊万里などで陶磁器などの茶器がつくられるようになります。

 これが佐賀県北部で陶磁器が盛んとなった大きな理由です。このとき利休は秀吉の命により、松に鎖をおろし、雲龍の小釜をかけ、白砂の上の松葉をかきあつめて湯をわかしたとされているのです。

 これについて、Wikipdeiaでは、次のように書かれています。

 伊万里、唐津などの肥前の陶磁器は、文禄元年から慶長3年(1592年から1598年)に至る豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵,いわゆる文禄・慶長の役(壬申倭乱)の際に、朝鮮半島から強制的に連行した陶工たちが祖国の技術を伝え、開窯したというのが通説になっていた。しかし、窯跡の調査、堺など消費地での陶片の出土状況などから、唐津焼の創始は文禄・慶長の役よりはやや早く、1580年代に開始されたとみられている。

 天正19年(1591年)に没した千利休が所持していた道具の中には奥高麗茶碗(唐津焼の一種)の「子のこ餅」(ねのこもち)があったことが知られている。また、長崎県壱岐市の聖母宮(しょうもぐう)には天正20年(1592年)銘のある黒釉四耳壺があり、これが唐津の在銘最古遺品とされている。以上のことから、唐津焼の生産開始は遅くとも1591年以前であることがわかる。


  ところで、秀吉の黄金の茶室は有名ですが、これは容易に運搬可能な組み立て式の茶室でした。秀吉が関白に就任した翌年の天正14年(1586年)1月、年頭の参内で御所に運び込まれ、正親町天皇に披露されます。


黄金の茶室    出典:時事AFP


黄金の茶室    出典:NHK総合  大河ドラマ 軍師黒田官兵衛


利休の茶室    出典:NHK総合  大河ドラマ 軍師黒田官兵衛

 前回の軍師「黒田官兵衛」の放映にもありましたが、この黄金の茶室は、北野大茶湯などでも披露され、文禄元年(1592年)には大坂城から名護屋城に運び込まれした。

 図面は伝わっていませんが、当時の記録から、壁・天井・柱・障子の腰をすべて金張にし、畳表は猩々皮、縁(へり)は萌黄地金襴小紋、障子には赤の紋紗が張られていたとされています。また使用にあたっては黄金の台子・皆具が置かれたといいます。
 
 もちろん、わびさびの利休、こんな「黄金の茶室」は論外であったことが容易に察することができます。当然、次第に秀吉と距離を置くようになります。

 天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられます。前田利家や利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走しました。

 しかし、利休の助命は適わず、京都に呼び戻された利休は、聚楽屋敷内で切腹を命じられます。享年70です。

  利休の切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあると、秀吉がに考えたこともあり、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられています。

 そして死後、利休の首は一条戻橋で梟首され、賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたといいます。イスラム国ではあるまいし、酷いことをしたものです。おそらく日本の歴史に残る悪行ではないかと察します。

 以下は利休が死の前日に作ったとされる遺偈(ゆいげ)です。

 人生七十 力囲希咄 (じんせいしちじゅう りきいきとつ)
 吾這寶剣 祖佛共殺 (わがこのほうけん そぶつともにころす)
 提ル我得具足の一ッ太刀 (ひっさぐルわがえぐそくのひとツたち)
 今此時ぞ天に抛 (いまこのときぞてんになげうつ)

 上記の句には、さまざまな解釈があるようですが、
「七十年もの長い人生を過ごしてきたが、本当にしっかりと大法を会得するのは容易なことではない。いまや、わがこの明暗の両頭を切断すべき名剣をふるい、仏陀も祖師も共に滅殺し、無位の真人となりおおせたのだ」 という解釈が一般的だと思われます。

 利休忌は現在、3月27日および3月28日に大徳寺で行われています。

 千利休は1m80cm以上の長身だったそうですが、「黒田官兵衛」でも長身の男優、伊武雅刀さんが演じています。なかなかすばらしいです。


  ところで、私達も何度か空間放射線量測定ででかけました福島県の会津若松の若松城の近くに、鄙びた茶室の麟閣があります。「麟閣」は、当然のこととして利休に関係します。

  1590年若松城(別名:川城)に入った蒲生氏郷は、当代一流の武人であり政治家でありましたが、同時に偉大なる希有な文化人でもありました。

 とりわけ茶の湯は千利休の高弟として知られるところであり、千利休は氏郷を「文武二道の御大将にて、日本において一人、二人の御大名」と評しています。しかしながら、氏郷は40歳で生涯を終えています。秀吉が世を去る3年前のことでした。

  その氏郷は千利休が秀吉の逆鱗にふれ自害したあと、利休の茶道が途絶えるのを惜しみ、利休の子、少庵(しょうあん)を会津領内に保護し、少庵が氏郷のために鶴ヶ城の一角に造ったと伝えられているのが茶室「麟閣」です。その少庵は茶道三千家への道筋をつくったとされています。

蒲生氏郷年表
 弘治2年(1556)  近江国日野城主、蒲生賢秀の長男として生まれる。
 永禄11年(1568) 13歳の時、小田信長の人質となり、岐阜城に入る。
 天正10年(1582) 本能寺の変で日野城に信長の一族を守り立て籠もる。
 天正12年(1584) 伊勢の北畠氏攻めの功績で伊勢松ヶ島へ12万石で移封。
 天正16年      松阪城を築く。
 天正18年(1590) 8月、豊臣秀吉とともに黒川(若松)へ入る。会津92万石。
 文禄元年(1592) 黒川を若松と改め城下町を整備。
 文禄2年(1593)  若松城天守閣が完成する。
 文禄4年(1595)  肥前(佐賀県)の名護屋城で病に倒れ、京都の蒲生邸で亡くなる。
 文禄5年(1596)  興徳寺に無縫塔(卵形)が建てられる。


蒲生氏郷像   出典はWikipedia


鶴ヶ城と茶室、麟閣の位置

 実は、蒲生氏郷は、織田信長、羽柴秀吉に仕える一大武士、政治家であるとともにかつ千利休の弟子にまでなる傑出した文化人でした。であるが故に、千利休が秀吉に切腹を命じられ他界した後、利休の子、少庵(しょうあん)を会津領内に保護し、少庵が氏郷のために鶴ヶ城の一角に茶室「麟閣」をくつり、茶の湯を日本社会に持続させたと言えます。

  これについては、池田こみちと私の以下のブログに詳しく書いています! 

 青山、池田で行ってきた福島県内空間放射線量率測定調査で、会津若松は2回行きましたが、1回目の猛吹雪のなか茶室・麟閣を訪問しました。

◆池田・青山:<会津若松>蒲生氏郷と茶室・麟閣 

 以下は雪の中茶室・麟閣で撮影した写真集です。


福島県会津若松市 若松城にある茶室、麟閣にて
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.26


福島県会津若松市 若松城にある茶室、麟閣にて
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.26


福島県会津若松市 若松城にある茶室、麟閣にて
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10  2011.12.26


福島県会津若松市 若松城にある茶室、麟閣にて
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.26


福島県会津若松市 若松城にある茶室、麟閣にて
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.26


福島県会津若松市 若松城にある茶室、麟閣にて
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.26


福島県会津若松市 若松城にある茶室、麟閣にて
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.26


福島県会津若松市 若松城にある茶室、麟閣にて
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10  2011.12.26


福島県会津若松市 若松城にある茶室、麟閣にて
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.26

 以下は麟閣の公式ホームページより。

●茶室・麟閣の歴史

 豊臣秀吉の奥州仕置きによって天正18年(1590)蒲生氏郷が会津に入り(42万石のち92万石)、近世的支配を確立していきました。

 氏郷は織田信長の娘婿であり、器がおおきく勇猛な武将であるうえ、この時代を代表する文化人で、特に茶道に親しみ、のち利休七哲の筆頭にあげられるほどでした。

 天正19年(1591)2月28日、千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられ、千家が茶の湯の世界から追放された折り、氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんでその子、少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に働きかけました。

  その結果、文禄3年(1594)と推定される「少庵召出状」が出されたのです。

 少庵は京都に帰って千家を再興し、千家茶道は一子、宗旦(そうたん)に引き継がれました。

 そののち宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の3千家が興され、今日の茶道隆盛の基が築かれました。 かくまわれている間、氏郷のために造ったと伝えられているのが「麟閣」であり、以来、鶴ヶ城(若松城)内で大切に使用されてきました。

 しかし、戊辰戦争で会津藩が敗れ、明治初年、鶴ヶ城が取り壊される際、石州流会津怡渓派の森川善兵衛(指月庵宗久)は貴重な茶室の失われるのを惜しみ、明治5年(1872)5月、自宅へ移築し、以来百二十年にわたり、森川家はその保全に努めてこられました。

 会津若松市では平成2年9月12日、市制90年を記念してこの氏郷少庵ゆかりの茶室を後世へ伝えるため、鶴ヶ城内の元の場所へ移築いたしました。



出典:公式ホームページ