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ザクセン王国の栄華を今に
ドイツ・ザクセン州短訪


聖母教会

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2021年9月6日
独立系メディア E-wave Tokyo
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◆聖母教会(ドレスデン市) 


ドレスデンの聖母教会(フラウエン教会)
Source:Wikimedia Commons
Kay Körner, Dresden (Saxony) - Kay Körner, Dresden (Saxony), CC 表示-継承 2.5, リンクによる

はじめに

 聖母教会(Dresdner Frauenkirche)は、ドイツ東南部ザクセン州のドレスデンにある福音主義キリスト教会です。ドイツ福音主義教会を構成するザクセン福音ルター派州教会に属しています。

 教会の建物は第二次世界大戦中のドレスデン爆撃を乗り切ったものの、完全に焼損し、爆撃の翌日に崩壊しました。しばらく放置されていましたが、1985年に「かつての敵同士の和解を象徴する建築物」として再建が決定します。

 外部の復元は2004年に、屋内は2005年に完了し、教会は2005年10月30日からプロテスタントの感謝祭である10月31日の宗教改革記念日にかけて行われた祝賀式典により再び聖別されました。

 月に一度、ベルリンのセント・ジョージ英国国教会の牧師による晩祷が英語で執り行われる。


聖母教会の上空からの写真(2008年)
Source:Wikimedia Commons
Wolfgang Pehlemann - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる



再建された聖母教会
Source:Wikimedia Commons
Ronny Kreutel - Kausalkette - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる


館日・時間:
 ツヴィンガー宮殿のゼンパーギャラリーにあるオールドマイiスター絵画館は、火曜日から日曜日の午前10時から午後6時まで開いています。絵画館は月曜日が定休日です。

入場料
 通常の入場料:10.00ユーロ/人割引:7.50ユーロ/人
 17歳未満の子供と若者は無料で入場できます。
 学童、学生、研修生(17歳から):7.50ユーロ/人
 10人以上のグループは1人あたり9.00€を支払います。


歴史

 聖母教会は、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世がローマ・カトリック教会信徒だったにも関わらず、福音主義教会(ルター派)の大聖堂として建築されました。

 最初のバロック様式の教会は1726年から1743年にかけてドレスデン市の大工長ゲオルク・ベーア(de)の設計で建築されましたが、彼は最高傑作の完成を見ることなくこの世を去りました。ベーアは教会の祭壇、講壇、洗礼盤を全信徒の真正面に配置する独創的な設計をし、それによりルター派福音主義教会典礼の新しい精神を捉えたのです。

 1736年、高名なオルガン製作者ゴットフリート・ジルバーマンが3段の手鍵盤と43のストップを備えるオルガンを製作しました。オルガンは11月25日に奉納され、12月1日にヨハン・ゼバスティアン・バッハが独奏会を行った。


聖母教会と市場 (ベルナルド・ベッロット画)
Source:Wikimedia Commons
ベルナルド・ベッロット - The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM), distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, リンクによる



聖母教会(1880年)
Source:Wikimedia Commons
不明 - https://www.loc.gov/pictures/item/94512896/, パブリック・ドメイン, リンクによる


 教会は、高さが91.23m(再建後は91.24m)で、縦方向が50.02m、横方向が41.96mあります。外観で最も特色があるのが型破りなドームで、底部の直径が26.15m、上部は約10mで、「石の釣鐘(die Steinerne Glocke)」と呼ばれました。

 ミケランジェロのサン・ピエトロ大聖堂のそれに匹敵する技術的快挙である聖母教会の1,200トンの砂岩製のドームは、内部の支柱を伴わずに屹立していました。当初、疑問視されていたにも関わらず、このドームはきわめて安定していることを証明しました。

 1760年にドームは七年戦争中フリードリヒ大王率いるプロイセン軍によって発射された100発以上の砲弾に被弾したことが確認された。砲弾を跳ね返し、教会は危機を切り抜けたのです。

 完成した教会はドレスデンの町に特色あるシルエットを与え、(カナレットと同名であることで知られる甥の)ベルナルド・ベッロットによる有名な絵画と、ノルウェーの画家ヨハン・クリスチャン・ダールの「月光のドレスデン」によってそれは捉えられました。

 1849年には、教会は5月蜂起として知られる革命の争乱の中心となりました。聖母教会はバリケードによって取り囲まれ、すでに逃げられない反乱分子が、教会内で一網打尽になり逮捕されるまで戦いは続きました。

 200年以上もの間、ベルの形をしたドームは古都ドレスデン地平線を見下ろし、そびえ立っていた。
 この教会の被葬者にはハインリヒ・シュッツとこの教会を設計したゲオルク・ベーアが含まれている。

破壊


聖母教会の廃墟(1991年)、手前の標識は「崩落の恐れがあるため立ち入り禁止」
Source:Wikimedia Commons
Bundesarchiv, B 145 Bild-F088675-0031 / Faßbender, Julia / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる



破壊つくされた聖母協会
Source:Wikimedia Commons
Anne-Marie Steenbergen - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる



保管されている聖母教会の廃墟の石材(1999年9月)
Source:Wikimedia Commons
Greg O'Beirne - 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, リンクによる


 1945年2月13日、英米同盟軍はドレスデン爆撃を開始しました。聖母教会は二昼夜の攻撃に耐え、巨大なドームを内側から支える8本の砂岩製の柱は、都市に投下された約650,000の焼夷弾の熱に曝される中、教会の地下聖堂に避難場所を求めた300人の避難者が退避するまで持ちこたえました。

 教会の周囲と内部の温度は摂氏1000度に達したといいますう。 2月15日午前10時、ドームはついに倒壊しました。柱が真っ赤に輝き爆発し、外壁は粉々になりました。6,000トン近い石材が崩れ落ちて堅牢な床を貫通し、床自体も陥没しました。

 祭壇と、オリーブ山にあるゲッセマネの園でのイエスの苦悩を描いたヨハン・クリスティアン・ファイゲ(de)によるレリーフは、爆撃と教会を破壊した火災の間、部分的な損害を被っただけでした。祭壇と内陣はそれぞれ壊れずに残りました。特徴のほとんどを留めた彫刻の破片が瓦礫の下に埋もれました。

 聖母教会はドレスデンの輪郭から消え、黒ずんだ石材は、こんにち東ドイツとして知られる共産主義政権の統治下で、45年間市の中心部に積まれたまま放置されました。

 第二次世界大戦の終戦直後、ドレスデン在住者は教会の破片の石を回収し、将来の復元に用いるために番号を振りました。またそうした再生に向けた市民の感情に配慮した当局は、駐車場を作るために廃墟を片付けるという考えを思い留まるります。

 1982年、廃墟は東ドイツの体制に対する平和裏な抗議行動と結びついた平和運動の場となり始めました。爆撃記念日には、花と蝋燭を持った400人のドレスデン市民が静かに廃墟へやってきましたが、これは東ドイツにおいて高まりつつあった市民権運動の一部となりました。

 1989年までにドレスデンやライプツィヒ、その他の地域の抗議運動者の数は何万人にもなり、東西ドイツを隔てるベルリンの壁は崩壊しました。これによりドイツ再統一への道が開いたのです。


再建と資金調達の促進


ドレスデンの聖母教会(フラウエン教会)
Source:Wikimedia Commons
Kay Körner, Dresden - Kay Körner, Dresden, CC 表示-継承 2.5, リンクによる


 教会を再建しようという意志は、第二次世界大戦が終わる最後の数か月の間すでに存在しました。しかし東ドイツの政治的な事情により再建は遅れ、中断するに至りました。

 聖母教会の瓦礫の山を含むドレスデン市の中心部は戦没者記念碑として保全されることになりましたが、これは1940年にドイツの爆撃により破壊され、イギリスの戦没者記念碑とされたコヴェントリー大聖堂(en)と対をなすものと位置づけられました。

 廃墟が劣化し続けたため、ドレスデン市はゼンパー・オーパーの復興がようやく完了した1985年、聖母教会をドレスデン城(de)の再建の後に建て直す決定をしました。

 ドイツ再統一後、活動は再燃しました。1989年、ドレスデンの著名な音楽家ルードヴィヒ・ギュトラーをリーダーとする14人の熱心なグループは市民機構を結成しました。このグループが1年後「聖母教会復元」となりましたが、これは積極的な個人の資金調達活動から始まりました。

 この団体はドイツとその他の20カ国で会員が5,000人を越えるまでに成長しました。ドイツで同系列の援助グループが結成され、国外でも宣伝活動を行う組織が3つ設立されました。

 再建計画は勢いを増した。何百人もの建築家や美術史家、そして技術者が新しい建築物に再利用するために、それぞれの破片を識別し、付票をつけ、数千もの石を分類しました。彼ら以外のメンバーは資金を調達する仕事に従事しました。

 ドイツ生まれのアメリカ人ギュンター・ブローベルは少年のころ、難民となった彼の一家が、爆撃される数日前にドレスデンのすぐ外の町に避難した際、聖母教会のオリジナルを見ていました。

 1994年、彼はドレスデンの美観および建築遺産の再建と維持の援助を目的とするアメリカの非営利団体「フレンズ・オブ・ドレスデン」(Friends of Dresden, Inc.)を設立し、代表取締役に就任しました。

 1999年、ブローベルはノーベル生理学・医学賞を受賞しましたが、獲得した100万米ドル近い賞金をドレスデンの修復へ、聖母教会の再建と新しいシナゴーグ建設のため会社に全額寄付しました。これは再建計画へ寄せられた個人の寄付の最高額でした。

 イギリスではケント公を王室の後援者とし、コヴェントリー総主教(en)を責任者とする「ドレスデン・トラスト」(Dresden Trust)が創設されました。コヴェントリー大聖堂の名誉司祭でドレスデン・トラストの創設者ポール・オーストライカー博士は「聖母教会はドレスデンにおいて、ロンドンのセント・ポール大聖堂のような存在なのだ」と記しました。

 数ある国外援助団体の中には、フランスの「パリ聖母教会会」(Association Frauenkirche Paris)やスイスの「スイス聖母教会友の会」(Verein Schweizer Freunde der Frauenkirche)が含まれました。

 聖母教会再建の費用は1億8000万ユーロでした。ドレスデン銀行は「献金証明書キャンペーン」によってこれの半分以上の資金を調達し、1995年以降も7,000万ユーロ近くの募金を集めました。またドレスデン銀行は、100万ユーロ越える従業員の寄付を含む700万ユーロ以上を寄贈しました。

 長年に渡って、聖母教会の小さな石の破片を封入した時計が何千個も販売されましたが、それには特別な記章が印刷されていました。ある出資者は230万ユーロ近い金額を聖母教会の石の破片を記念品として販売することにより賄いました。

 資金は再建の施行主体であり、ザクセン州及びドレスデン市、ザクセン福音ルター派教会の支援を受ける「ドレスデン聖母教会基金」へ引き継がれました。

再建


聖母教会の北側の様子。爆撃から残った最大の遺構を取り入れている部分である。(2006年)
Source:Wikimedia Commons
英語版ウィキペディアProhibitOnionsさん - en.wikipedia からコモンズに移動されました。, パブリック・ドメイン, リンクによる



クーポラを建設中の聖母教会(2003年)
Source:Wikimedia Commons
Webster から en.wikipedia.org, CC 表示-継承 3.0, リンクによる



ドレスデンの聖母教会(フラウエン教会)再建工事
Source:Wikimedia Commons
Kay Körner, Dresden (Saxony) - Kay Körner, Dresden (Saxony), CC 表示-継承 2.5, リンクによる


 1993年1月、教会建築技術者エベルハルト・ビュルガー(de)の指揮の下、ゲオルク・ベーアが1720年代に用いた計画を使った再建がついに始まりました。土台は1994年に築かれ、1996年に地下聖堂が、2000年にはクーポラ(fr)の内部が完成しました。

 ドームを除いて、教会は可能な限り現在の技術の助けを借りながらオリジナルに用いられた建材と設計に基づいて再建されました。瓦礫の山は記録され、ひとつひとつ運び出されました。それぞれの石が最初にあったおよその位置は、堆積物のどこにあったかで測定が可能でした。

 使用可能な破片は計測され目録に記録された。石を三次元的にモニター上でさまざまな配置で動かすことが出来るコンピューター画像化プログラムは、建築家がオリジナルの石がどこに置かれ、どのように組み合わせられていたかを見つけるのを支援するために使われました。

 再建には何百万もの石が使われた。8,500を越えるオリジナルの石が教会から回収されましたが、およそ3,800が再建時に利用されまいた。火災によるダメージと風化のため、古い石はより暗い色の緑青に覆われており、再建の数年後には古い石と新しい石の違いがはっきりと現れてくることとなります。

オリジナルの祭壇の破片2,000個は、洗浄されて新しい祭壇の一部となった。

 建築家たちは何千枚もの古い写真や、礼拝に参列していた人たちや教会当局の記憶、そしてぼろぼろの古い発注書を頼りにモルタルや塗装に用いられた顔料の品質を詳細に調べた。18世紀当時は屋内の彩色に大量の卵が用いられたが、主な目的は発光させるためでした。

 入り口のオークのドアを複製するときには、建築家は扉の彫刻の細部について曖昧な記述しか得られていませんでした。教会を訪れた人々、特に結婚式の参列者は教会のドアの外側でポーズを取ることがしばしばであったため、建築家たちは市民らに古い写真を提供するよう要請し、結婚式のアルバムなどが提供された。これにより当初のドアが再現されました。

 金めっきを施された新しいオーブと十字架は可能な限り18世紀の技術を用いてロンドンのグラント・マクドナルド(Grant Macdonald Silversmiths)で鍛造されました。十字架はロンドン出身のイギリス人、金細工職人アラン・スミスによって制作されましたが、彼の父フランクはドレスデン爆撃に参加した航空機搭乗員の一人でした

 十字架はドレスデンへ旅立つ前にコヴェントリー大聖堂、リバプール大聖堂(en)、エジンバラのセント・ジャイルズ大聖堂、ロンドンのセント・ポール大聖堂を含むイギリス中の教会で5年間展示されました。

 2000年2月、十字架はケント公によって正式に贈与され 、D-デイ記念60周年の数日後にあたる2004年6月22日にドームの上に取り付けられ、聖母教会の外装が完成しました。

 戦後初めて完成したドームと金色の十字架は、数世紀前のように優雅にドレスデンの空に輪郭を描きました。かつてドームの上にあり、今は焦げて捻れてしまった十字架は、新しい祭壇の右側に立てられています。

新しい7つの鐘が教会の為に鋳造され、2003年の聖霊降臨祭で初めて鳴らされた。


ほぼ完成した聖母教会。歴史的な建物の輪郭を描き、そびえ立っている。
Source:Wikimedia Commons
Cepheiden - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる



内陣(内装)
Source:Wikimedia Commons
Gryffindor, CC 表示 3.0, リンクによる


 ジルバーマンのオルガンのレプリカは制作しないことに決定しました。これは「ドレスデンオルガン論争("Dresdner Orgelstreit")」を引き起こす結果となりましたが、それは新しいオルガンがまったく「現代のもの」になるという誤解に基づいていました。

 パイプが4,873本あるオルガンがフランスのストラスブールでダニエル・ケルンによって制作され、2005年4月に完成しました。ケルンのオルガンにはジルバーマンのオルガンの音栓一覧にあるストップ全てが装備され、それらを再現しようとしていました。またストップには追加されたもの含まれており、特に4番目のスウェル鍵盤は、バロック時代以後にオルガンのために書かれた19世紀の楽曲のスタイルに適したものでした。

 爆撃を生き延びた、改革者で神学者のマルティン・ルターの銅像は修復され再び教会の正面に建てられましたが、これは彫刻家アドルフ・フォン・ドンドルフ(en) 1885年の作品です。

 世界的に有名な建築物を再建しようという努力の集約は2005年に完了しましたが、これは当初の計画より1年早く、また2006年のドレスデン市800周年に間に合うこととなりました。聖母教会は宗教改革記念日の前日の祝祭と共に再び公開されました。

 再建された聖母教会は人々にとって希望と和解の歴史を象徴する記念建造物です。

 聖母教会では毎日の祈祷と日曜日に2回の礼拝が行われています。また、2005年10月から2010年までドレスデン市庁舎(de)内のドレスデン市立博物館(de)で聖母教会の歴史と再建について展示されています。


ドームの天井画
Source:Wikimedia Commons
Baccharus from Deutschland (Germany) - Frauenkirche, CC 表示 2.0, リンクによる



祭壇
Source:Wikimedia Commons
Andreas Thum - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる


公開以後

 再建後の公開以降、聖母教会は大変人気のある観光地となりました。公開後の最初の3年で700万人の人々が教会を訪れました。 再建はヨーロッパ中の他の再建計画に刺激を与え活性化させました。 教会ではキリスト教の礼拝も再び行えるようになりました。2009年にはアメリカのオバマ大統領とドイツのメルケル首相がグリューネス・ゲヴェルベ(de)での会見の後、この教会を訪れました。

批判

聖母教会の再建に批判が無いわけではなかった。

 古い建築物に使われていた炎で損傷した現物の石が再利用されたものの、それらの大部分はコンピュータープログラムの助けを借りて適宜配置されました。これが聖母教会と、教会に込められた追悼の意に関する興味深い哲学的な疑問を喚起しました。

 そしてこの教会が建築当時の方法ではなく、高度なコンピューターモデリングツールCATIAを代わりに使って再建されたことが、ついには古い建築物を実際に「再建する」ことは何を意味しているのかという疑問を引き起こしたのです。


ドレスデン聖母教会、ルター派の賛美歌の本が入った本棚
Source:Wikimedia Commons
Kay Körner, Dresden (Saxony) - 自ら撮影, CC 表示-継承 2.5, リンクによる


つづく