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春の福島歴史・文化短訪

H福島県博物館

青山貞一 池田こみち
掲載月日:2012年5月8日
 独立系メディア E−wave Tokyo


 2012年のGW中の5月1日〜3日、今年に入ってはじめて福島県内の放射線測定調査を敢行した。 放射線測定の前後、合間の限られて時間ではあったが、福島県内の歴史、文化を探訪した。

 昨年12月末は、会津若松、西会津、南会津の放射線測定を行い、会津若松では若松城、茶室麟閣を探訪した。 今回は、@三春町の滝桜、A福島市の花見山公園、B会津若松市の飯盛山(白虎隊自刃の地)C福島県立博物館、D下郷町の大内宿の5カ所である。

●福島県立博物館

 現地調査の3日目、会津若松市は朝から雨が降っていた。5月3日は北関東地域で1時間降雨量が50mmの豪雨と天気予報されていた。会津若松市から東京まで帰るとなると、どうしても栃木県など北関東地区を通らざるを得ない。

 そんなこともあり、3日目の5月3日の午前中は、会津若松市内で雨天でも過ごせる歴史・文化に関する博物館に行こうということになった。探すと福島県立博物館が会津若松市、しかも宿泊先から近い若松城公園の一角にあることが分かり車ででかけた。


福島県立博物館の位置 出典:グーグルマップ

 下の3枚の写真は県立博物館の外観である。広大な敷地に瀟洒な建築、会津若松の歴史と文化にマッチしている。


撮影:青山貞一 NIkon CoolPix S8 2012.5.3


撮影:青山貞一 NIkon CoolPix S8 2012.5.3
 

撮影:青山貞一 NIkon CoolPix S8 2012.5.3

企画展示

 通常、博物館には常設コーナーと企画展示コーナーの2つの展示がある。福島県立博物館では、企画展示として「小さなもの集まれ!―雛道具から古民家模型まで―」という展示をしていた。

 下は入り口で入場者に渡されるパンフレットである。


入り口で入場者に渡されたパンフレットより

 
入り口で入場者に渡されたパンフレットより

 企画は大別してふたつ。ひとつは会津若松ゆかりのコレクター川内由美子が所蔵する1000点に及ぶ江戸時代のいわゆる雛道具である。

 もうひとつはいわき市在住の熱中人、夢想庵こと菅野清八さんが作り上げた古民家の模型である。共通しているのは、いずれも「ちいさい」ことである。いわゆるミニチュア。

 私(青山)の好きな言葉に、スモール・イズ・ビューティフル(小さいは美しい)があるが、まさに小さい美の結集である。

 実際、見て驚いた。残念ながら撮影禁止となっているのでその質感などは伝えられないがどれもこれも単に小さく精巧にできているというだけでなく、作者の思いがこもっているのである。たとえば、パンフレットには以下のように書かれていた。

 ※ちなみにおそらく世界一の博物館といってよいイタリア・ローマの
   バチカン宮殿の一角にあるバチカン博物館ですらストロボを使わ
   ない撮影は実質OK、またEUの多くの博物館では三脚を使って
   の撮影はいくら、など少額撮影が許可されている。にもかかわらず
   日本のほとんどの博物館は撮影厳禁。また金色堂などはNHK
   などマスコミの撮影を大々的に許可しながら一般人の撮影を不許
   可としている。理由はいろいろ考えられるが、一節には関連する
   書籍、写真などの売り上げに関連しているとされている。しかし、
   素人が三脚を使わずスナップ的に撮影する写真など、せいぜい
   ブログなどに小さく載せる程度である。そもそも国立、公立博物館
   であれば、EUのように積極的に開放し、それがきっかけとなり
   来館者が増えるというポリシーをとるべきであろう。巨額の税金、
   公金を使って超立派な建築物、施設をつくり、そこに多くの学芸員
   だ、研究員だ、事務員だ、管理職を配置しながら、日本の博物館
   はどこにいっても入館者は非常に少ないのが実態である。なんでも
   禁止、禁止が日本の博物館だが、財政難の折り、新たなポリシー
   を考え実行する時期にきているはずだ。


●雛家具
 雛家具は七澤という江戸の有名なお店が精魂込めてあつらえたものも含む川内コレクションである。成功は作りに思わぬ感嘆の声を上げてしまうでしょう。

●古民家模型
 精確な調査の上に作られた本物そっくりの精密さ、でもそれだけに飽きたらず、現在の生活の痕跡もそのまま再現したものです。自慢は茅葺屋根、素材を集める苦労もなんのその、すばらしい茅屋根の質感は感動ものです。見ていると自然と世界に引き込まれ、魅せられ時を忘れてしまいそうです。

●裁縫雛形
 そして裁縫雛形、裁縫を習う過程で、ミニチュアを縫い上げることにより技術も習得できるというもので、かつて裁縫学校でやったもののようです。縫いあげたものは名も無き女性たち、袴や長着はもちろん、女児官衣服、シャツ、ワンピース、蚊帳などまでバラエティーに富んで目を楽しませくれます。

 
入り口で入場者に渡されたパンフレットより

 
池田は、2月〜4月はじめまで東京の根津美術館で開催されていた特別展
「虎屋のお雛様」http://www.nezu-muse.or.jp/jp/press/pdf/press_toraya_1.pdf

を見ていたこともあり、特に興味深く今回の企画展を拝見させていただいた。

虎屋のお雛様は段飾りとして揃えたものを個別に展示したもので、その数は270点にも及んでいたが、今回の川内さんのコレクションは質的にはほぼ同じ時代の緻密な作品が1000点近くも集められていて、まさに圧巻であった。

 雛道具だけでなく、古民家や裁縫雛型などすべての展示物が、日本の伝統文化、精神文化を尊ぶ会津若松の地での開催に相応しく、自然と調和しながら日々の生活を楽しんできた日本人ならではのこころ、今は失われつつある日本人らしい暮らしを想いさせるものだった。

 今回の企画展「小さなもの集まれ!」には、次のような品々が集められていた。

第1章 小さな雛道具(約1000点)
 ・小さなお雛様たち
 ・小さな雛道具(懐石道具、水屋道具、楽器、玩具、食器類、針箱鏡台、、
  化粧道具などありとあらゆるものが揃っていた)
 ・人形(豆市松人形)
 ・江戸小物玩具

第2章 全国古民家模型(64作品)
 ・茅葺民家模型(北海道、東北、関東、中部、近畿、
  中国、四国、九州・沖縄、番外)

第3章 ちっちゃな着物、裁縫ひな形(約250点)
 ・須賀川の裁縫雛型
 ・八王子の裁縫雛型
 ・塩川の裁縫雛型
 ・大妻で作った裁縫雛型
 ・郡山の裁縫雛型

第4章 いろいろまだある小さなもの
 ・小さな縄文(大地の中から)
 ・柳津の微細彫刻(仏像など)
 ・農具の雛型
 ・神社に奉納された千石船
 ・現代のスイーツ・デコレーション

 また、常設展では、福島県の歴史について、原始→古代(古墳時代〜平安時代)→中世(鎌倉〜戦国時代)→近世(江戸時代)→近・現代(明治〜昭和)さらに、自然と人間という総合展示に加えて、民族、自然をテーマとした個別展示もあり、まさに時系列、立体的に福島県の全体像を把握することができる。自然のコーナーでは、非常に美しいフタバスズキリュウとよばれるクビナガリュウ(恐竜)の骨格の展示があり、日本の国土の神秘に触れることも出来た。

「本県は東北地方の南端に位置し、広大な面積を占めています。県土は、南北に連なる阿武隈山地と奥羽山脈にへだてられた3つの地域からなり、それぞれ異なった気候風土をもっています。また、本県は、水・農産・鉱産・林産・観光などの資源に恵 まれています。

  このような自然の中で、人びとは、洪水や火山爆発などの災害をのりこえながら、創意と工夫を重ねて、豊かな資源を開発・利用してきました。」と説明されているが、今回の原発事故によって人々がひとつひとつ積み重ね積み上げて作り上げてきたものすべてを破壊したかと思うとなんともやりきれない思いに駆られた。


●希有で秀逸な精神文化を生んだ会津藩


 ところで、博物館入館以前から分かっていたことだが、博物館の常設展示を見てさらにその感を強くしたことがある。

 それは、福島県一般ではなく、会津藩の気高く希有で秀逸な精神文化である。

 現在の福島県は、く歴史、風土、機構、文化がことなる会津地方、中通り地方、浜通地方がいわば強制的に合体化させられ現在の福島県になっている。

 郵便配達のために日本中の由緒ある地名がめちゃくちゃにされたように、明治維新後の廃藩置県などで精神文化、風土、地勢、気候区分さらに歴史、文化がまっく異なる地域が強制的にひとつの県とされてしまったのは至極残念なことである。

 それぞれの地方には歴史、文化があるが、全日本的に見て傑出した精神文化のふるさととなっているのは、いうまでもなく会津地方であろう。それは若松県、会津藩、戊辰戦争、会津戦争などに象徴的に現れている。

会津

 福島県を南北に連なる奥羽山脈と阿武隈高地の2つの尾根線を概ねの境界とした「会津」「中通り」「浜通り」の3つの地域の1つ(西から列挙)。

 現在の福島県西部にある会津盆地を中心として、東は奥羽山脈、北は飯豊山地、西は越後山脈、南は下野山地(帝釈山脈、大佐飛山地を含む)に囲まれている。中心地は会津若松市。

 『古事記』によれば古くは相津と書いた。会津美里町の伊佐須美神社縁起では、紀元前88年(崇神天皇10年)、四道将軍大毘古命と建沼河別命の親子が蝦夷を平定するため北陸道と東海道に派遣された折、出会った土地を「会津」と名付けたという。

 以下、会津の成り立ち、歴史について紹介してみたい!

◆会津藩の歴史

●関ヶ原以前
 戦国時代、会津地方は後の会津若松である黒川を本拠とする戦国大名、蘆名氏の領国であった。天正17年(1589年)に伊達政宗が蘆名氏を滅ぼして黒川を本拠としたが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の奥州仕置によって、会津地方及び周辺地域は政宗から没収され、代わって蒲生氏郷に与えられた(42万石、後に92万石)。氏郷は黒川を若松と改め、上方から商人を呼び寄せるなど、領国経営に功績を残した。氏郷の死後、慶長3年(1598年)に子の蒲生秀行は宇都宮へ減封(12万石)となり、代わって越後から上杉景勝が入封(120万石)した。景勝は関ヶ原の戦いで西軍に与したため、慶長6年(1601年)に米沢へ減封(30万石)となった。

●蒲生時代
 慶長6年(1601年)、上杉景勝に代わって、関ヶ原の戦いで東軍に与した蒲生秀行が、再び加増(60万石)の上で入封した。2代目の忠郷が寛永4年(1627年)に若くして急死すると、無嗣により改易となるところを、母が徳川家康の娘であるため、同母弟の忠知を当主として伊予松山での減封(30万石)存続が許された。

●加藤時代
寛永4年(1627年)、蒲生氏と入れ替わりで伊予松山から加藤嘉明が入封した(40万石)。しかし2代目の明成が、家中騒動の末(会津騒動)、領地返上を願い出て改易となった。

●松平時代
 加藤氏改易の寛永20年(1643年)に、出羽国山形藩にあった、2代将軍秀忠の庶子の保科正之が、23万石で入封した。幕末までに内高は40万石を突破して、表高より内高が下回ることすらあった徳川御三家の水戸藩より実収入が多い藩となり、藩の軍事力もこれを上回っていた。保科正之は、3代将軍家光の異母弟として、家光の信頼を受けて幕政に重きをなしたが、武田家遺臣の出自を持つ養父に義理立てをして、松平姓に改姓することを遠慮していた。保科氏は3代正容(正之の子)のとき松平に改姓し、徳川将軍家親族の名門として名実ともに認められるようになった。以後、保科氏の子孫である会津松平家が治めた。家格は親藩・御家門で、家紋は会津葵を用いた。旗印は漢字1文字で「會」。

●幕末
 1859年、北方警備のため幕府から根室・紋別を譲渡される。最後の藩主となった9代容保は、8代容敬の婿養子となって美濃国高須藩の高須松平家から養子に入った(容敬も同家から養子入りしており、容保の実の叔父である)。文久2年(1862年)、容保は京都守護職となり、更に新撰組を麾下に置いて(新撰組は、その後会津戦争まで会津藩の隷下にあった)会津藩士ともども尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担った。そして禁門の変では、孝明天皇を奪取しようとした長州藩勢から御所を守り抜いた。後に容保は、会津藩を頼りとしている旨が記された「御宸翰(ごしんかん)」を孝明天皇より賜った。
 慶応2年12月(1867年1月)に孝明天皇が崩御すると、既に薩長同盟を締結していた薩摩藩、長州藩との対立が激化した。大政奉還、王政復古を経て慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。この戦いで、明治天皇を奉じる新政府軍により、会津藩には孝明天皇よりの御宸翰があったにもかかわらず朝敵とされたのである。
 会津藩は奥羽越列藩同盟の支援を受け、庄内藩と会庄同盟を結ぶなどして新政府軍に抵抗したが、会津若松城下での戦い(会津戦争)に敗北して降伏した。近年では、列藩同盟総裁中将の役職に松平容保が就いていたとする説もある[1]。なお、戊辰戦争直前には、庄内藩とともに、当時のプロイセンとの提携を模索していことが分かった。降伏により、会津藩領は会津松平氏から没収された。藩主の容保は鳥取藩預かりの禁錮刑となった。明治2年(1869年)に、容保の嫡男・容大は家名存続が許され、陸奥国斗南(青森県むつ市)に斗南藩を立てた。一方、会津地方は廃藩置県を前に、明治政府民政局による直轄地となった。その後若松県となったものの、明治9年(1876年)には福島県に合併された。

出典:Wikipedia


出典:マピオン

 会津藩は一端、若松県となったものの福島県に合併され今日の福島県となっている。その福島県がこともあろうか国策を受け入れ多数の原発を立地させた。今や福島原発事故は世界中で知らない者がないが、誇り高い精神文化を築き上げた会津が福島原発事故の延長で毀損を受けている様は、至極残念無念である。

つづく