エントランスへはここをクリック   


景福宮@興礼門

青山貞一


掲載月日:2007年11月15日
無断転載禁

歴史を今に、ソウルの旅 景福宮@興礼門
 
 ソウルを車でなく足を使って回ると、そそかしこに歴史的資産があり、身近な自然とともに大切にされていることが分かる。 ソウルに行って驚くことのひとつは、すべての歴史を今に生かしていることだ。景福宮(キョンボックン)もそのひとつである。

 歴史的資産を全面公開、それも無料同然で誰にでも公開している。しかも、数時間毎に日本語、英語、中国語など、韓国語以外の言語で学芸員が丁寧な説明をしてくれる。

 景福宮(キョンボックン)は李氏朝鮮王朝が創設した王宮。北京の紫禁城をまね勤政殿を正殿にし、それを結ぶ線に対して左右対称に建物が配置されている。

 私はソウルに行くたびに必ず立ち寄っているが、景福宮では、下の写真にあるように、ほぼ毎年3月から11月まで興礼門で、「李朝宮城門の開閉および守門将交代式」が行われている。今回も、ちょうど守門将交代式に居合わせた。この李朝宮城門の開閉および守門将交代式は、景福宮だけでなく、徳寿宮など他の宮殿でも行われている。

 ところで、景福宮でどうしても触れなければならないことがある。

 それは1592年文禄の役(壬辰倭乱)で豊臣秀吉の軍勢が略奪・放火し、景福宮のほぼ全ての建物を焼失させたことだ。その後、王宮は離宮の昌徳宮を正殿とし、約270年間にわたり景福宮は放置された。

 さらに、1910年、日本軍人を総督とする朝鮮総督府が敷地内の建物の8割以上を破壊し、光化門を撤去、宮殿正面に総督府庁舎を建て征服者が日本だということを示し、街から宮殿を見えなくしたことだ。

 王朝の正宮が2度も日本軍によって破壊され韓国という国が消滅したことは、韓国にとって屈辱の歴史の象徴とされている。今でも、工事中の景福宮の正門の壁(光化門)に日本の植民地時代の総統府の写真が掲げられている。

 足を踏んだひとはすぐに忘れるが、踏まれたまれたひとは一生忘れないというが、韓国を旅行すると、その痕跡を至るところに見る。日本が2度に渡り韓国を侵略し、植民地統治したことを韓国の国民は石に刻んでいる。このような過ちを、私たちは二度と起こしてはならない。


興礼門 撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10  2007.11.10


興礼門 撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10  2007.11.10


興礼門 撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10  2007.11.10


興礼門 撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10  2007.11.10

■景福宮(キョンボックン)

李氏朝鮮の王宮。韓国のソウル特別市にある。

 李氏朝鮮王朝の創始者李成桂は1392年に開城で王に即位、その2年後の1394年に漢陽(現在のソウル)への遷都を決定。風水に基づき漢江の北、北岳山の南にあたる「陽」の地が選ばれ宮殿を建設。李成桂が開城で政務をとっている間から王宮の建設がはじまり、「景福宮」と命名され1395年から李氏朝鮮の正宮として使用された。

 1397年には漢陽 の城郭と四大城門が完成した。1395年から約200年間、朝鮮王朝の正宮として使用された。1592年文禄の役(壬辰倭乱)で豊臣秀吉の軍勢が略奪・放火しほぼ全ての建物が焼失。その後は離宮の昌徳宮が正殿に使用され、約270年間も放置された。

 王朝末期の1865年に高宗の父興宣大院君が再建し、国王の住居と政務を昌徳宮から移した。以後、王朝滅亡まで宮殿として存続したが、1910年、日本軍人を総督とする朝鮮総督府が敷地内の建物の8割以上を破壊し光化門を撤去し、宮殿正面に総督府庁舎を建て征服者が日本だということを示し、街から宮殿は見えなくなった。

 王朝の正宮が2度も日本軍に破壊され韓国という国が消滅したことは、韓国にとって屈辱の歴史の象徴とされている。

 光化門を正門にし、勤政殿を正殿にし、それを結ぶ線に対して左右対称に建物が配置されている。これは北京の紫禁城などの様式を倣ったもので、儒教の伝統にかなったものである。また中には優雅な庭園が配されており、宮殿の中にいながら山河に遊ぶことができるようになっている。

 現在は宮殿北側にある部分が大韓民国大統領官邸(いわゆる青瓦台)に使用されている。光化門は1968年にコンクリートで復元されたが総督府庁舎があったため正確な位置ではなかった。これは2006年に撤去され宮殿全体とともに復元工事中であり、2009年に正確な位置に復元される予定。2025年に景福宮復元事業が完了予定。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』