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<今日の一枚>
初秋を「野反湖」に見る

青山貞一
掲載月日:2007年9月2日、9月18日拡充
無断転載禁

  2007年の8月7日〜9日、青山ゼミの学生を連れ草津白根山に行ったとき、可憐な高山植物、「こまくさ」の株分けを六合村でしていると聞いた。

 最近になるまで六合村は地図では見たものの、ほとんど、どんなところか知らなかった。


コマクサ 白根山頂近くにて 2006年8月
野反湖周辺のコマクサは7月が見頃

 六合村を当初「ろくごうむら」と読んでいたが、池田さんから「くにむら」と指摘される。なぜ、六合を「くに」と読むかについては、六合村に詳しい説明があった。 この六合村は明治33年以前は草津町と一緒だったそうだ。

 現在、人口は1863人 世帯数は738世帯である(平成19年8月1日現在)
。私がよく行く徳島県の上勝町と人口規模でいい勝負だ。

六合村の歴史

 六合村には古くから人が住んでいたことが、広池遺跡(縄文時代)、熊倉遺跡(平安時代)および各地の出土品から推定されます。

 鎌倉時代初期には、西吾妻に狩り訪れた源頼朝が、花敷温泉を発見したと伝えられています。また、この狩りの案内をした細野御殿介が、草津温泉を発見した功績で「湯本」の姓を賜ったと伝えられています。湯本氏は戦国時代から江戸時代初期にかけて、現在の六合村と草津町周辺を支配する有力者になっていきます。

 戦国時代末期になると、現在の六合村を含む西吾妻周辺は武田氏配下の真田幸隆の支配下に入ります。その後幸隆の子昌幸の統治を経て、豊臣秀吉の小田原征伐後、沼田藩を与えられた昌幸の長男信幸(信之)の統治に入ります。

 江戸時代になると、沼田藩5代藩主信利が改易され、幕府の直轄地になります。その後一部地域は分割により旗本領になり、明治にいたります。幕末には開国を唱えた蘭学者高野長英が、一時赤岩に隠れ住んだと伝えられています。また、信州松代藩の佐久間象山が、資源の調査のために入山を訪れています。

 明治になると、廃藩置県により岩鼻県、群馬県、熊谷県を経て、明治9年以降は群馬県となります。明治22年には自治制施行に伴い、草津村と称し役場を小雨に置きましたが、明治33年(1900年)7月1日草津村を廃し、入山、生須、小雨、太子、日影、赤岩の6大字をもって「六合村」と称します。平成12年(2000年)には100歳を迎えました。

出典:六合村HP

 上の説明にも出てくるが、草津温泉、川原湯温泉など群馬県の有名な温泉はいずれも、源頼朝が発見したとされている。この有名な武将はよほど温泉が好きだったんだろう。またこの地の温泉には平家の落人の名もでてくる。

 六合村には、花敷、湯の平、尻焼、応徳温泉など、秘境の湯で有名な温泉がある。すぐ隣には日本有数の草津温泉もある。

湯の平温泉

 これらの温泉には、タオル一本と500から1000円もあれば宿泊しなくても入れるものが結構ある。

 2007年8月31日、同じ吾妻郡にある環境総合研究所の保養所(別荘)から、定番となっている八ツ場ダム(やんばダム)の建設現場を視察した後、国道145号線から六合村に向かってみた。 

 まず、左の地図の下端にある国道145号線から長野原草津口近くで292号線に入る。

 長野原の国道145号線の標高は600mほど、292号線はつづら折りの登り一本。約10分ほど車で上ると、六合村に入る。そこからさらに20分ほど登ると、六合村の町役場が見える。

 道の駅でお昼。皆で食事をとる。私は山菜そばを注文。すごくおいしい。一休み。

道の駅六合

 道の駅六合の女性に「野反湖」までどのくらいかかるか聞くと、車で40分とのこと。後で調べると道の駅は800〜900m、野反湖の標高は1550mだ。食事後、車で野反湖に向かう。

 長野県の野尻湖は有名だが、野反湖は六合村に来てはじめて知った。道の駅に「野反湖の四季」というDVDを見たところ、すばらしい自然景観、こんな湖が群馬県と長野県、新潟県の県境にあったのか、と一同驚く。

  さらに驚いたのは、この湖は人造湖(ダム)であったことだ。日本には2000箇所以上のダムがあるが、まるで天然湖、自然湖のような美しさである。

 道の駅の女性から道が悪くなると言われたが、長野原から六合村までの292号線はすべて舗装されている。その先の野反湖に行く405号線も一部を除き舗装されていて乗用車の運転には、まったく問題ない。

 途中、いくつもの橋から写真にある渓谷が見える。天気が悪く、前日の雨のせいか、水は濁っている。だが、なかなかすばらしい自然景観だ。尻焼温泉など、秘境の温泉に入る道もある。



 「道の駅六合」から約30分で以下の光景が忽然と眼前に現れた。皆おどろく。

 野反湖の南端から北側を撮影(青山貞一、2007年8月31日)


好天だと同じ場所からこんな景色が展開する(出典:六合村HP)


 野反湖の南端から東側を撮影(青山貞一、2007年8月31日)

 しかし、上の写真を撮影し10分後、すべてが霧と雲に覆われ、あっという間にそれこそ10m先が見えなくなった。霧と雲に覆われた後に、登ってきたひとは、ここで何が見えるんですか、といっていたほどだ。


野反湖を再訪した際、霧と雲の中、南端の湖畔まで降りてみた。
(青山貞一、2007年9月15日)


人造湖ながら人跡未踏の地に立った感がある。(青山貞一、2007年9月15日)


野反湖南端の湖畔にて (青山貞一、2007年9月15日)

野反湖

 野反湖(のぞりこ)は、群馬県六合村にある標高約1550mにあるダム湖。湖水は信濃川を経て日本海へ流れる。なお、群馬県かつ関東で水が日本海へ流れるのは、尾瀬とここだけである

 上信越高原国立公園特別地域に指定されており、ダム湖百選にも選ばれている。もともとは尾瀬のような湿地帯であったところに、東京電力の発電用ダムである野反ダムが建設され、現在のようなダム湖になった。

 国道405号が湖の東部を通って、長野県との県境近くの野反ダムまで車で入れる。なお、冬季は通行止めである。また、本数は少ないが夏場にはJR吾妻線の長野原草津口駅から、JRバス関東による路線バス(花敷線)が運行されている。

 野反湖はダム湖らしからぬ風景を持つ高原の美しい湖であり、特に野反峠からの眺望はまるで天然の湖の様である。湖畔はノゾリキスゲなどの高山植物の宝庫である。このため初夏から秋にかけてハイキング(近年、湖の周囲に遊歩道が整備されている)やキャンプを楽しむ観光客や、ニジマスやイワナなどの魚釣り(入漁券が必要)などを楽しむ客で賑わう。

 また、白砂山などの上信越国境の山々の登山口でもある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 野反湖周辺には、高山植物のマツムシソウが群生していた。帰ってから調べると、このマツムシソウは北海道から九州に分布する多年草とのこと。

 ブナ帯などの山地草原に生育し高さは50〜90cm。草原の初秋をいろどると。まさに初秋の高山に群生している。マツムシソウの名前の由来だが、マツムシの鳴く頃に咲くからであるとのことだ。湖畔にはマツムシソウ以外にツリガネニンジン、アザミやススキも。ども初秋を感じさせる。

マツムシソウ マツムシソウ
アザミ ツリガネニンジン

 ところで、野反湖は、ダム湖で東京電力が戦後昭和31年に開発したとされる。野反湖はそのダム湖のはずだが、ダムは一体どこにあるのか?

 どうも長野・新潟側、私たちが立っている南端の反対側、北側にあるようだ。南端の展望台近くにあるお茶屋の女性に聞くと、湖の北側にロックフィルのダムがあるという。南端から5kmの距離とのこと。

 せっかくここまできたのだからと、霧の晴れ間を見計らい全員、車に乗って北端まで行く。

 途中、ゲートがある。おそらく冬にこのゲートを閉め、通行禁止にするのだろう。

 そうこうしているうちに、ロックフィルダムの端に出る。反対側に3名の東電関係の技術者がいるので、いろいろ質問する。


野反ダムの築堤上


野反ダムの築堤上

 この地域はどうみても上信越高原国立公園のなか、しかも特別地域のはずだ。そんなところになぜ、こんなダムができたのか? 環境庁はなぜ許可したのかなどと皆で話し合った。

 しかし、以下の看板を見て氷解した。

 ダムは何と昭和31年に竣工している。環境庁は昭和46年に設置されているから、それより遙か前に野反湖はできていることになる。管理者は東電、ロックフィルダムの施工者は日末建設。ダムの標高は1517mとある。ただ、いくら昭和31年とはいえ、尾瀬並みの湿原を壊してダムを造るのはいかがなものか?

 尾瀬では以下にある平野長蔵氏がたった一人で尾瀬のダム建設に反対したようだが、野反ではダム建設に反対したひとはいなかったのであろうか?

反ダム運動

 最初期の自然保護運動は、尾瀬原ダム計画の反対運動であった。尾瀬沼のほとりに住んでいた平野長蔵は、一人でこれに反対。

 発電所の建設に反対するために、尾瀬への定住を始めたという。実際には、発電用施設は尾瀬沼南岸に取水口が1つ建設されたのみで、それ以外は建設されなかった。

 1956年に尾瀬地域が特別天然記念物に指定された時点で事実上発電所計画は不可能になっていたものの東京電力は1966年まではこの地に発電所建設計画を持っていた。

 東京電力が発電所建設を正式に断念するのは1996年である。ただし現在でも尾瀬地域の群馬県側は全てが東京電力の所有地であり、現在の東京電力は木道の建設や浄化槽式トイレの建設、湿原の復元など、環境省や各自治体と並び尾瀬を守る活動の主体のひとつとなっている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



湖畔にあったダムの概要を示す立て看板

野反ダムの沿革

 東京電力株式会社が1953年(昭和28年)より建設に着手し、1956年(昭和31年)に完成した。型式はロックフィルダムであるが、湖側の堤体表面をコンクリートで遮水する「コンクリートフェイシングフィルダム」という型式で、戦後資材不足の際に採られた手法である。

 同型式のダムには日本初のロックフィルダムである小渕ダム(木曽川水系久々利川)の他、石淵ダム(北上川水系胆沢川。国土交通省東北地方整備局)と皆瀬ダム(雄物川水系皆瀬川。秋田県)しかなく、野反ダムを含め全国で4基しか存在しない。高さは44.0m。

 群馬県のダムはその99%が利根川水系で占められており、野反ダムは群馬県唯一の非利根川水系のダムである。換言すれば、関東地方で唯一日本海に注ぐ河川に造られたダムとも言える。ダムに付設する切明発電所の認可出力は20,000kW。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 下の写真はダムの堤防上から野反湖の南端を見たところ。人工物は何もなく、天然湖と見間違う。


野反ダムの堤防から野反湖の南端を撮影(青山貞一、2007年8月31日)

 下の写真は、ダムから日本海側に水を放流しているところ。東電のひとに聞くと、滅多にこのような放流はしないとのこと。移っている流れの先は信濃川となる。



 ここから長野県の栄村や新潟県の苗場はすぐそばだ。
 
 以下の3次元地図で405号線の経路また市町村と県境が分かる。真北が長野県、右上が新潟県である。遠くに日本海も見える。野反湖の標高は1517m。


青山貞一がグーグルアース(GoogleEarth)を駆使し、3次元化した
野反湖周辺の地図。ブルーの部分が野反湖。その向こうの
左側が長野県、右側が新潟県となる。

※グーグルアースはバージョンアップを繰り返しているが、とくに
3次元可視化技術の向上はめざましい。