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スコットランド独立の背景

(4)中世スコットランドの形成

青山貞一 Teiichi Aoyama

September 9 ,2014
Alternative Media E-wave Tokyo
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※独立系メディアの<スコットランド>スレッド

◆中世スコットランドの形成       参考出典:Wikipedia

 スコットランドの王朝は、統一アルバ王国の成立によって始まる。

 アルバ王国、すなわちスコットランド王国は、イングランドとの勢力争いおよびスコットランド独立戦争をへて、ひとつの王国としてまとまりを見せた。この時期のスコットランドは、ヨーロッパから流れ込んでくる人々の影響のもと、ヨーロッパ化が進んだ。

アルバ王国(古ゲール語表記:Albu)

 アルバ王国またはアラパ王国は、6世紀ごろピクト人によって成立したといわれる、スコットランド王国成立の母体となった政権である。スコットランド・ゲール語では現在でもAlbaがスコットランドを意味している。9世紀にケネス1世(ケネス・マカルピン)によってダルリアダ王国と合併したと伝えられる。

 11世紀初頭、ダンカン1世の時代に南のストラスクライド王国を組み込み、北部を除くスコットランド全域を影響下においた。このころからアルバ(アラパ)はスコーシア王国、やがてスコットランド王国と呼ばれるようになった。

 北方のオークニー諸島、ケイスネス、サザランドは依然ヴァイキング系ノース人の勢力に支配されており、これをスコットランド王家が包含するのは15世紀のことになる。


Coronation of King Alexander III on Moot Hill, Scone on 13 July 1249. He is being greeted by the ollamh righ, the royal poet, who is addressing him with the proclamation "Benach De Re Albanne" (= Beannachd De Righ Albann, "God Bless the King of Scotland"); the poet goes on to recite Alexander's genealogy.


イングランドからスコットランドに入るとき、道路脇に看板があり、
ようこそスコットランド、ようこそアルバへとある。
Alba=Albu(古代ゲール語)=Scotlandである。


上の写真は2012年7月25日に青山、池田がスコットランドに
現地視察に行った最終日に撮影したもの
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2012-7-25 Scotland


出典:Wikipedia


アルバ王国の地域区分
 灰色:王領地
 黄色:封建諸侯の領地
 茶色:氏族または王の支配に浴さないと考えられている地域
出典:Wikipedia

統一アルバ王国の成立

 いまに伝わるケネス・マカルピンの伝説は、アルバ王国がどのようにして成立したかを説明している。それによれば、アイルランドから渡ってきたスコット人のダルリアダ王国が、東のアルバ王国を征服し、ケネス・マカルピンはケネス1世としてアルバ王国の王位についたとされる。

 しかし、両者を比較したとき、ダルリアダ王国の劣勢はあきらかであり、この伝説の信憑性は低いとされている。また、最近の研究ではケネス1世没後、ピクト人の王があとを継いだと考えられている。

 一方、スコットランド南西部は、638年ごろからアングル人のバーニシア王国ついでノーサンブリアの勢力下にあった。

◆ノーサンブリア(Northumbria)

国旗

 アングロサクソン人が築いた七王国のうち最北、現在のノーサンバランドにあったアングル人の王国である。王国の範囲は現在の行政区で言えば、ノース・イースト・イングランド、ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー、カンブリアを含むノース・ウェスト・イングランド、そしてスコティッシュ・ボーダーズの範囲まで渡る。またハンバー川より北の地方がこう呼ばれ、ハンバー以南の地方はサウサンブリアと呼ばれた。

 ノーサンブリアにはデイアラ王国、バーニシア王国という二つの王国が並存していた。これらはときに対立し、ときに統一されてノーサンブリア王国という一つの国になり、そしてまた分裂するということを繰り返した。二つの王家の伝説的な祖先が、オーディンの双生の息子、ベルデーグとウェグデーグとされているところからも、これらがもとは同じ部族であったことが推察される。

 2012年7月の現地施設では、最終日の7月25日、ほぼノーサンブリアの北2/3の地区を走破している。


ノーサンブリアの誕生地図(600-700年)


802年頃のノーサンブリア王国

  
Page from the Lindisfarne Gospels, c 700.    ノーサンブリアのタータンチェック

出典:Wikipedia

 この地方がスコットランドに組み入れられるのは、1018年のマルカム2世の征服によってであった。このころにはオークニー諸島・ケイスネス・サザランドといった北部地域を除き、スコットランド王朝の支配下にあった。北部や島嶼地域は依然ノース人の勢力圏になっていた。

 このころ確立されたタニストリーという王位相続制度によって、スコットランドは二つの家系が交互に王位を継承していた。タニストリーは王の生前から後継者を決めてあるため、後継者にしてみれば王の早逝が望ましかった。結果、王の暗殺事件が頻発することになる。戯曲「マクベス」は、こうした社会的背景によって起きた事件の物語である。

アーブロース宣言

 ノルマン・コンクエストに始まる外との接触は、スコットランド史に新たな展開をもたらした。ひとつにはイングランドとの勢力争いが顕在化したこと、もうひとつは多様な民族の流入と社会・文化の変化である。

 ウィリアム1世らイングランド諸王はノルマン・コンクエストの延長としてスコットランドにたびたび侵攻し、ときにはスコットランドを屈服させることもあった。このころからイングランドとの抗争が日常化し、双方の境界線はハドリアヌス長城を上下した。エドワード1世のスコットランド侵攻とウィリアム・ウォレスの抵抗も、その文脈の中で起こった事件だった。
 

 スコットランドは対イングランド戦略の必要性からフランスと「古い同盟」を結んで対抗した。

 その後しばらくフランスとは友好関係を維持するが「古い同盟」はフランスの属国化を意味する体制でもあった。エドワード1世の征服により1296年イングランドに屈服して、王座のシンボルであったスクーンの石を奪われた。しかし、10年後、ウィリアム・ウォレスらが反乱をおこして独立戦争がおこった。この戦争は曲折をへて1318年には実質的独立を達成し、1328年になってイングランドとの和約も成立した。

 このとき有力諸侯によって採択され、ロバート1世が承認したアーブロース宣言(1320年)は、マグナ・カルタのごとく、その後のスコットランドの統治の根幹をなす宣言となった。いわく、イングランドに従属する王は人々の手によって斥けられるとする。この宣言はのちのちまでスコットランドの政治を左右し、国王への権力集中を防ぐ効果をもたらした。

◆アーブロース宣言( Declaration of Arbroath)

 ローマ教皇ヨハネス22世への書簡文であり、同時にイングランド王国の支配から解放されたスコットランド王国の独立宣言である。スコットランド独立戦争に勝利したスコットランドは、アーブロース寺院で1320年、これを採択して独立し、1328年にはイングランドとの間に和約を成立させた。

 宣言はスコットランドが独立国であること、その王はロバート1世であること、そして独立と自由が脅かされたときは団結してこの脅威を除くことを明記している。宣言では王は臣民の支持が必要であり、イングランドに従属的態度をとる王はアーブロース宣言によって排されるとした。これによって国王の統治権が正統性を持つようになった一方、王に権力が集中することもなくなった。


出典:Wikipedia

 上記の独立戦争と独立宣言については次章のスコットランド独立戦争に詳述する!

つづく