米軍基地と公共工事 のまち沖縄県, 関係者インタビュー 泡瀬干潟埋め立て問題 桑江直哉氏 宇都宮朗、青山貞一 武藏工業大学大学院 環境情報学研究科 2007年12月11日 転載禁 |
武蔵工業大学大学院環境情報学研究科修士2年の宇都宮朗さんの研究「在日米軍基地及び公共事業の環境・財政への影響に関する研究〜沖縄県を事例として〜」の一環として、2007年2月青山、宇都宮、坪根の3名で沖縄県への現地調査を行った。この現地調査は、何はともあれ現場を見ることに重点をおいた。 そして2007年11月29日から12月2日にかけ、同じメンバーで沖縄県に3泊4日の現地調査に出かけた。今回は研究テーマに関連する調査、研究、活動をしている者、首長などの行政関係者、環境保全に係わるNPO・NGOなどに直接会い、話しを伺うとともに議論を行った。 以下は、インタビュー内容の一部である。 ◆「泡瀬干潟埋立問題」 2007年12月1日土)午前 2007年12月1日(土) 9:00〜11:00
環境NPO、桑江直哉氏 へのヒアリング 場所:沖縄市福祉文化プラザ 環境NPO、桑江直哉 氏 桑江直哉氏の話を聞く大学院生ら 泡瀬干潟埋立計画 泡瀬干潟には、干潟であり、珊瑚の海でもある。泥、礫、砂、海草藻場、珊瑚の多様な環境がパッチワーク状に連なり、多様なそして微妙な生態系を保っている。イソスギナ、クビレミドロ、ルリスズメダイ、ガンガゼ、ミヤコイシモチ、カクレクマノミ、トウアカクマノミ、デバスズメダイ、ウミヒルモ、ミライカナイゴウナ、トカゲハゼ、ムナグロなど絶滅危惧種を含め、貴重な生物が生息している。ムナグロの全国1の越冬地であり、貝の種類は300種以上、潮干狩りを行える場所でもある。 1998年、隣接する新港地区の浚渫土砂の捨て場に困った国(沖縄総合事務局)が、沖縄市に埋立を申し入れ、急遽、埋立計画が進展した。沖縄市としては、それまで埋立計画は独自予算では不可能であり、国も認めていなかった。国は新港地区を当初浚渫土砂で埋める計画であったが、質が悪いため、浚渫土砂を使わず、購入土砂を使ったため、浚渫土砂の捨て場に困っていた。これにより、国と沖縄市の利益が一致して、埋立計画が進行した。 2000年3〜4月に環境影響評価書の送付、縦覧を行った。その環境影響評価書には、貝がわずか26種のみの記載であり、クビレミドロ・海草の移植、人工干潟でのトカゲハゼの保全、珊瑚の生息はないなど杜撰なアセスメントである。クビレミドロ・海草の移植技術は確立されておらず、人工干潟でのトカゲハゼの保全は不可能である。2000年12月には、187haの埋立が認可・承認された。 現状では魚介の宝庫 当初からの埋立の目的は崩れている。 1.新港地区のFTZ(新自由貿易地域)の港・航路浚渫土砂の処分場として泡瀬干潟を埋め立てる(国・総合事務局の目的) 2.埋立地を海岸リゾート地として利用し、沖縄市・中部圏を活性化させる(県・沖縄市の目的) FTZは失敗している。分譲率は僅かに2.1%である。国の援助で沖縄県が建設したレンタル工場は使用料:年1440万円が900万円に値下げされたが、空きが埋まることはない。4年間で47億円の県民負担になっている。 2001年11月、沖縄タイムス世論調査では埋立反対57%、賛成24%、分からない19% 推進派は署名運動を展開し、約8万5000人の署名を集めた。(1人で50回、生まれる予定の子供の署名) 2002年12月、海上護岸工事、仮設橋梁工事着工 2005年12月、沖縄県が海上工事着手。埋立工事着工後も、アセス書に記載されていない新種・貴重種が多数発見・確認されている。しかし、それらの種の保全がされずに生埋めされようとしている。2005年、「レッドデータおきなわ」には、泡瀬干潟・海域に生息している甲殻類7種、貝類108種、魚種6種、計121種が絶滅危惧種として記載されている。事業者側は、絶滅危惧種が確認された場合には、関係機関へ報告するとともに十分調整を図り、その保全に必要な措置を適切に講じると約束されているが、この埋立により、これらの種が絶滅に追い込まれる可能性が高い。 利用される見込みが薄い干潟を埋めた建て造成される人口島 「どうして沖縄の自然破壊が進むのか?市民参加がないのか?声をださないのか?」 1)海から遠ざけられた歴史 琉球王国時代に三司官を勤めた蔡温 蔡温は、農業政策に力を入れる一方で、漁民を海から農民へと転換させることに努めたと聞いています。不安定な漁業者は基本的には税を誤魔化していたため税が取りにくかった。そこで意図的に漁民よりも農民の方が堅実で偉いという印象を植え付けたのではないかと思われる。漁民に対する沖縄人の印象は「ウミンチュ(海人)」差別的に使っていた。今はTシャツにもあるように印象は変わってきているが、以前は蔑んだ意味で使っていました。 2)沖縄・日本復帰と海洋博覧会の光と影 1972年の沖縄復帰後、「本土並み」を合い言葉に大規模な開発が進んだ。特に1975年の沖縄本島北部で行われた沖縄海洋博覧会、空港のある本島南部の那覇と北部の海洋博覧会に高速道路を造ろうと大規模な道路建設が急激に行われた。 その頃、漁民だった人たちは一時の小遣い稼ぎと森を切り開き、道路建設に従事したのだった。しかし、その時の開発は北部特有の地層赤土をあらわにしたため、雨と共に海に流れ出て海を赤く染め、珊瑚など生態系を大きく崩してしまった。海洋博覧会後漁師になろうとした人たちは海の環境変化のため漁獲高が減り海に仕事場を求めることは難しくなってしまいました。 その後も公共工事による仕事を求める声が高まり、公共工事をするために林道開発に着手したのであった。沖縄北部のヤンバルと言われるジャングルに道を未だに道を造り続けているという急激な公共工事の導入が与えた影響は30年たった現在になっても変わらないでいます。 3)否定され続けられた文化・方言札 明治時代の琉球人日本人化政策のもと行われた行為 「日本の共通語を使わせるために各学校で行われた罰、みせしめの札。ある者がウチナーグチを使うと、次の違反者が出るまで札を首から吊るすことを命じられた。明治末から始まり、戦後に復活した悪名高き文化破壊行為。」沖縄人が言葉を失うと共に、その土地の風習や自然観などの教えも途絶えたものと思われます。 4)戦争の動乱期、そして戦後アメリカ統治により土地を奪われた人々は、今まで住んでいた場所を離れバラバラに暮らさなければならなくなった。 その過程でその土地の風習や自然観などの教えも途絶えたものと思われる。ちなみに沖縄の人は、海というと泳ぐところではなくてバーベキューをする場所であるというイメージに変わっている。戦後、海でバーベキューをするアメリカ兵を見て羨ましがったそうです。そして戦後、自信を無くした沖縄県民は、バーベキューをすることで豊かさを味わったのだと思います。沖縄県民の海との関わり合いのなさがここからも分かります。 5)県民性調査 「郷土愛が強く、血縁関係、地域連帯式が強い。価格意識が強く合理的で見栄を張らない。フランクに付き合えばよい。深刻な話は禁物」 どうしてこういう県民性なのかは分かりませんが、歴史的に過酷な運命を辿ってきた沖縄県民は、深刻な話よりも明るい話に目が行きがちのように思います。だからリゾートホテル、5000人の雇用などバラ色の開発には目が行くのに、自然が破壊されるなどネガティブな情報には目を背ける傾向があるように思います。 インバビュー終了後、泡瀬干潟の現地視察 インバビュー終了後、泡瀬干潟の現地視察 泡瀬干潟が見える丘(世界遺産)にて、宇都宮朗さん つづく |