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ケイプ・ブレトンの秋
〜Cape Breton in Autumn〜

青山貞一

2006年10月28日


転載禁


 インゴニッシュのロッジに一泊した。

 今回の現地調査、最後の日、インゴニッシュからハリファックス国際空港までは車で直接向かっても最低7時間以上の旅だ。


ケイプブレトン2日目の走行ルート

 インゴニッシュ出発後、最初に向かったのは、例のテーブルマウンテン、正式名ケイプ・スモーキーである(下の写真がケイプ・スモーキ−)。



 
 まずはこのテーブルマウンテンを登る。イロハ坂のようにくねくねした道を上ると、一気に下りになる。


 ケイプ・スモーキーを下り、海岸線をさらに南東に向かう。



 地図を見ると、ここからシドニー方面へのフェリーをつかった近道(ショートカット)があることがわかった。

 実際に行ってみると、フェリーは名ばかり。対岸に行くには、以下の写真のようにわずか100mもない。あっという間に到着した。400円ほどの料金を払う。


  ここでケイプブレトンで一番大きな町、シドニーに向かう。オーストラリアのシドニーと同じスペルである。

 途中、ここにもパフィンを見学するボートの案内がある。やはりセントジョーンズからケイプブレトンまで、あちこちにその時期になるとパフィンがいるようだ。ただし、季節は初夏。

 この辺の地理は、地図でみても非常に複雑でわかりにくい。海岸線が複雑、地形が入り組んでいて、距離感もよく分からない。借りた自動車にはナビゲーションがついていないのでなかなか大変だ。



 ここからシドニーに行くには、小さな海峡を渡らなければならない。

 地図で見るとかなり大きな橋があるようだ。

 以下がその橋である。何とも立派な本四連絡架橋のような橋だが、通過する自動車はほとんどいない。


シドニーの位置


 上の橋を渡り高速道路を数km行くとノース・シドニーに到着した。ここからフェリーでニューファンドランド島まで行ける。ただし、18時間もかかるそうだ。


NFL行きのフェリー乗り場。間違って中に入ってしまった(笑い)。


空から見たシドニーはこんな町
source:http://sydney.capebretonisland.com/aerial.jpg

 シドニーには工業団地がある。またシドニーはケイプブレトンのビジネスセンターとなっており著名なホテルも海岸側に立地していた。ノヴァスコシアシュウ最後のゴミ焼却炉があったのもこの町であるが、それ以外さして見るところもないので、一気に内湾にそって南西に向かう。南端が次に目的地のIsle Madame。

 昼食をとっていなかったので、途中、タラのフライとポテトチップスなどで食事をとる。どういうわけか、カナダ東部で白身魚というと、タラかハドックである。これが結構うまい。

 ここでもらったパンフレットからケイプブレトンの複雑な地形、海岸線それに紅葉を写した写真を何枚かお見せしよう。名付けてケイプブレトンの秋。

ケイプブレトンの秋

ケープブレトン高原国立公園のすさまじい紅葉(笑い)をこころゆくまでご堪能ください!

http://www.hickerphoto.com/data/media/65/nova_scotia.jpg

http://www.hickerphoto.com/autumn-pictures-4028-pictures.htm

http://www.hickerphoto.com/fall-pictures-4086-pictures.htm



 都合、2時間近く走ると、下の看板に出会う。これこそ、ケイプブレトンでアカディ、アカディア、ケイジャン、すなわちフランス系カナダ人が多く住む地域の地名である。せっかくなので、帰路につく前に Isle Madame をひとまわりすることにした。



 手持ちの地図ではよく分からなかったが、現地に行くと以下のような詳細地図があり、Isle Madameはかなり広く、入り組んだ海岸線となっていることも分かる。


Isle Madame島全図

 島の中は、どこにも下のようにカナダ国旗とともに、フランス国旗の一部に★のマークが付いた旗がある。



 Isle Madame はフランス国旗がはためく以外、これと言って見かけ上、とくに違ったことはなかったが、もらったパンフレットによると、

Isle Madameは、本土に接続するが、ケープブレトン島(ノヴァスコシア)の南の東端に位置している非常にユニークな小さい島です。住民は4,200人あまり、その名称すなわちIsle Madameは、フランスのルイ14世(『マダムデマントノン』)の妻を記念してつけられた。島は幅が約7マイル、南北が10マイルで、多くの小さな村(例えばArichat、プティーデGrat、西Arichat、D'Escousse、Poulamon、マルティニク、Poirierville、Laロンデ岬、ロッキー湾、Pondville)から構成されている。産業は、もともとは漁業と農業であったが今日は、魚の資源量の低下によりプティーデGratのリッチモンド魚類工場が閉鎖され、人々は他の仕事を見つけなければならなくなった。そのため、30マイル離れたケイプブレトン本島に通っている。世帯によっては他の地域に移住した。その場合でも引退と同時にこのIsle Madame帰る。

とある。

 アカディアについては以下を参照のこと。

アカディアの文化

 アカディア人は、同じカナダのフランス系住民でもケベック人(Quebecois)とは異なる歴史、文化とアイデンティティを持っている。アカディア人の多くはカトリック信徒である。

 アカディア人の話すフランス語(Acadian French)は、フランスの古語や古い言い回しを今日まで保っており、発音も若干異なる。この他のアカディア方言としては、ニューブランズウィック州モンクトン付近で話される「シャック」(Chiac)やノバ・スコシア州ケープブレトン島のセント・メアリーズ・ベイ(St. Mary's Bay)で話されるセント・メアリーズ・ベイ方言(St. Mary's Bay French)などが確認されている。

 歴史上の軋轢から、年配のフランス系住民の間では現在に至るまで英国および英語を母国語とする住民に対する反感が根強い。若い世代は英語文化の浸透、また就職に有利なことから英仏バイリンガルであることが多く、母語であるフランス語の喪失が危惧されている。

 現在のアカディアは「国土なき国家」と呼ばれることもある。国歌は「Ave Maris Stella」(讃えよ海の星)。国旗はフランスの三色旗の青地に金の星(アカディアの守護聖人、被昇天の聖母の象徴、「海の星」)をあしらったもの。1884年制定。

 ニューブランズウィック州北東部のアケイディアン半島(Acadian Peninsula)には、18世紀から20世紀までのアカディア人の生活を再現した歴史村型テーマパーク「ル・ヴィラージュ・イストリーク・アカディアン」(Le Village Historique Acadien)がある。家屋、家具・調度のほとんどが実際にアカディア人が居住または使用したものであり、資料的価値が高く、大変興味深い。しばしば年中行事の再現を行っており、アカディアの伝統料理も味わえる。夏期のみ開園。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



Isle Madame の海辺


Isle Madame の海辺 この先は北大西洋

アカディアの歴史

 当初この地域はフランス中西部出身者を中心として入植されたが、仏領ヌーベル・フランス(現ケベック州)と英領ニューイングランドの間に位置するアケイディアの領有権は北米植民地の覇権を争う二国の間を度々行き来し、1755年、フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)勃発を機に、英国はフランス系住民に対し、英国に忠誠を誓うことを強制した。これを拒否し、あくまで中立を固辞したフランス系住民に対し、英国軍はその住居を焼き、所有地を没収し、フランス本国または英国植民地に強制的に移送するという、現代の国際法の観点から見ると大変非人道的な措置を取った。

 この事件はGreat Upheaval、Great Expulsion、Deportation、または Acadian Expulsionと呼ばれる。移送を逃れたフランス系住民の多くはは先住民の手を借りて仏領ヌーベル・フランスに逃亡した。ケベック州マドレーヌ諸島にはイギリス軍の追及が及ばなかったため、アカディア人の集落は存続した。移送されたアケイディアの人々の多くは1763年ごろから英国領となった旧アケイディアに帰還し始め、イギリス系住民の入植地を避けてニューブランズウィック州南東部(モンクトン Moncton 付近)沿岸、北部沿岸、そして州北西部セント・ジョン川(Saint John River)流域のマダワスカ郡(Madawaska County)、バスコシア州ケープブレトン島のシェティキャンプ(Cheticamp)とセント・メアリーズ・ベイ(St. Marys Bay、仏発音:ベイ・サント・マリー Baie Sainte Marie)、プリンスエドワード島南西部エグモント・ベイ(Egmont Bay)、モント・カーメル(Mont Carmel、発音:モン・カルメル)付近など、そのほとんどが海沿いの土地に定住し、漁と干鱈の加工で生計をたてた。また、アカディア人の一部は、アメリカ南部のルイジアナ地方に定住し、「ケイジャン」の祖となった。
(強調部分は筆者)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 
1702年、ノバスコシア州にアカディアが定住し始めた頃の地図


 
実際、島を回ると、この地域が漁業と密接に関係していた様子が分かる。



Isle Madame の夕暮れ

 Isle Madameを一通り巡った後、ハリファックス国際空港に向けて帰る途中、車窓からRRFBの環境デポを発見。当然のこととしてケイプ・ブレトンもノバスコシア州の一部、環境デポがあって当然である。


RRFBの環境デポを発見

 こうしてセントジョーンズ、ケイプブレトンで合計、自動車走行距離1500kmに及ぶ今回の現地視察はすべて終わった。ノバスコシア本島に渡る前に、夕食をとった。

 夕食後、レストランの外に出ると、すばらしい夕焼けに出会った。





2006年9月上旬のカナダ東部への旅はこれですべて終わった。

 
最後にひとこと
                           

 ケイプブレトンは、友人のボブ・ケニーさんから伺っていたように、自然景観が大変すばらしいところでした。しかし、私にとって今回の旅で強く感じたことは、異文化をもったひとびとが日常生活の中でどう接触しているかです。いうまでもなく、この地には、全部で15カ所のアカディ、アカディア、ケイジャンなどと呼ばれるフランス系の人々がつつましやかに生活しています。



 カナダにはケベック州、ケベック市に象徴されるようにフランス系カナダ人が多く住む州や地域があり、公用語も英語と仏語の2つになっています。



 しかし、今回訪れたケイプブレトンはじめノバスコシア州には他にも13もの地域にアカディアと呼ばれるフランス系そしてカソリック系の人々が非常につつましやかな生活しているさまを見ました。プライバシーもあるので、生活の実態を写真化していませんが、もともと米国に比べるとつつましいカナダにあって、彼らの生活は豊かで便利を追い求める先進諸国のひとびとと違う感じがしました。

 3年前ノバスコシアに30名を連れて行ったとき、今回、来日し講演してくれたノバスコシア州政府のボブ・ケニーさんが、いろいろその歴史をバスの中で話してくれました。

 実際、ノバスコシア本島の廃棄物関連見学施設のそばに、ケイジャンが英国系の人々に排斥された場所があり、そこを皆で訪問しました。



 それらケイジャンは、一部がノバスコシア州やプリンスエドワード島州、さらにブランズウィック州に残りました。


カナダ東部地域におけるアカディアの分布図
From Wikipedia, the free encyclopedia

 しかし、他の人々はミシシッピー川(だかテネシー川)上流から米国に南下し、今のルイジアナ州に住みついています。それらフランス系住民は、一昨年、カトリーナという巨大ハリケーンが同地を襲ったとき、多くの被害(死亡者)を出したと聞きました。

ケイジャン(Cajun)

 「アカディア人」を意味する「アケイディアン」("Acadian")の訛りで、フランスのアカディア植民地に居住していたフランス語系の人々のうち現在のルイジアナ州に移住した人々とその子孫。アカディアのフランス系住民は18世紀半ばのフレンチ・インディアン戦争の際、イギリス国王に対する忠誠表明を拒否したため、英国植民地に強制追放(Great Upheaval)され、一部が元フランス植民地でスペイン領となったルイジアナに分散して移住した。

 ルイジアナ州のニューオリンズおよびルイジアナ州南部の「アケイディアナ」(Acadiana)と呼ばれる地域に定着した集団がよく知られている。1990年の国勢調査ではケイジャン人口はルイジアナ州で43万人、米国全土で60万人であった。

...


米国内のケイジャン分布
From Wikipedia, the free encyclopedia

 多くは周囲から孤立したコミュニティーに住み、現在でもケイジャン・フレンチ(Cajun French)と呼ばれる独自のフランス語方言を話す。フランス語アカディア方言(Acadian French)をベースにフランス本土のフランス語、フランス語のケベック方言(Quebec French)やハイチ方言、ハイチのクレオール語(Haitian Creole Language)、北米先住民の諸部族の言語やスペイン語、英語の語彙が混ざったものである

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 さらに、相当前、友人の福井秀夫さん(現在、政策研究大学院大学教授)が留学中、池田さんや原科先生と一緒にミネソタ州にでかけたとき、その南部には、ドイツ系のアーミッシュというひとびとが、やはり非常につつましやかな生活をしていました。以下はそのときのブログです。

●青山貞一、池田こみち:現代文明を拒否し生きる米国アーミッシュ
http://eritokyo.jp/independent/column/amish/index.html

アカディに関するサイト(ただし、フランス語)
http://fr.wikipedia.org/wiki/Acadie

ケイジャン料理

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 これらのひとびとは宗教の関係からか、いずれも現代文明に批判的、とくにアーミッシュは電気も使わず、自動車もつかわず馬車で移動するなど、私も大きな関心をもったおぼえがあります。

 皆さんも、今後海外に行く機会があったら、世界史に翻弄されたひとびとの生活についても見てください。


 21世紀末は地球全体が、ひょっとするとこれらの人々のような生活を余儀なくされる可能性も無いとは言えません。文明史論的に彼らの生活をみる視点がますます必要かも知れませんね。

 日本でも反原発運動をしているひとたちに、電力会社などの幹部は、江戸時代に戻ろうというのかなどと言いますが、今こそ、江戸時代の生活様式と生活を本気で研究すべきではないかと思います。

 歴史的見れば、豊かで便利は、そう長くはつづきません。

 くしくも高等学校で世界史を履修しないのに単位を取らせてきたことが大問題となっています。私は世界史が大好きで、大学も国立大学でしたので7〜8科目も受験時に試験を受けました。

 世界史や日本史は私たちにとって非常に重要なものです。それらを粗末にする国には将来はないと行っても過言ではないでしょう。大学受験のあおりで、それらの歴史教育がおろそかにされ、他方、国を愛する心=愛国心が強制される教育が跋扈しています。
 
 今こそ、私たちは世界史や日本史から多くを学ばねばならないのではないでしょうか?