官製談合と随意契約(3) 〜環境行政史上に残る大汚点〜 青山貞一 2006年4月15日 |
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ところで、上記の元環境事務次官は、事務次官退職後、神奈川県知事に立候補し当選、知事となった。 その元高級官僚は、環境庁在任当時の1986年に、大気汚染が大幅に改善されたとして公害健康被害補償法を改悪、1987年以降、新規の公害病患者の認定を打ち切った張本人と目されている。
もちろん、その背後には、基金を拠出している大気汚染排出関連事業者、企業、業界、協会などから環境庁に大きな圧力があった可能性は否めないが、それら産業界の意向を受け、社会的経済的弱者の切り捨てと言う日本の環境行政史上、汚点となる法改正を行ったのである。 当時、もちろん公害補償法改正案に反対する運動の高まりはあったが、政府と自民党は法案改正に強行採決も辞さずという構えで衆院環境委員会での趣旨説明を皮切りに審議を強行した。 この国会審議のなかで、今でも語り継がれる信じられない事件がおこった。 参院環境特別委員会の山東昭子委員長が委員会をすっぽかした事件だ。山東議員は、法案趣旨説明が行われた参院本会議を欠席、何とテレビのゴルフ番組の録画撮りに出かけていたのである。最終的に山東議員は「委員長辞任」に追い込まれた。 このような経過のあと、同法改正案は参院環境特別委員会で政府原案どおり可決、同日の参院本会議でも可決され、成立した。既存の患者にたいする補償は従来どおり継続するとさせたものの新規認定はなくなってしまった。 元事務次官が環境庁時代断行したこの公害健康被害補償法の改正だが、皮肉なことに1986年以降、日本の大気汚染はひどくなった。原因は、工場・事業所と言うより、大都市の自動車走行量が飛躍的に伸びかつ大型車、ディーゼル車が増加したためだ。これは以下の環境省のデータからも明らかである。 1986年当時、国(元事務次官ら)が大気汚染が良くなったと言ったのは、図中の青の部分のことであり、大都市ではその後、図中紫の部分が相当増えている。公害健康被害補償法の改正は、青の部分が減ったとして公害病の新規認定を打ち切ったのである。 その結果、東京、神奈川、大阪などで二酸化窒素(NO2)や浮遊粒子状物質(SPM)汚染は深刻化する。そして、若年層を中心に気管支喘息患者など呼吸系疾患を持つひとびとが増え続けている。 以下は、川崎市の二酸化窒素(NO2)大気汚染濃度の年次推移だが、1986年(昭和61年)意向も年平均値が増加していることが分かる。結局、工場、事業所などの固定発生源の汚染排出量が減ってきたことを理由に、当該分野の産業界の意向を受け、環境庁が無理矢理、公害健康被害補償法を改正したことがデータ面からもよく分かる。これをしたのが元環境庁事務次官であったと言える。 出典:環境総合研究所 ひとたび改正された公害健康被害補償法では、新規患者を認定しないとしたことからその後の著しい大気汚染によって喘息などを発症した患者には医療費、薬品代などは一切支払われず、まさに自己責任、自己負担とされている。 これは二酸化窒素大気汚染環境基準の緩和とともに、日本の環境行政の汚点と一つとされている。 私が川崎公害訴訟、東京大気汚染公害訴訟に原告側証人として出廷したのは、国の環境行政によって理不尽に公害病認定を門前払いされてきた社会経済的弱者を救済したかったからである。 これは現在、鷹取敦さんが証人となり、たたかいをつづけている。
しかし、何と元環境庁事務次官、神奈川県知事を務めた高級官僚が環境分野で行ったのは、これだけではなかった。 つづく |