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松代と言えば、言わずと知れた太平洋戦争の遺跡、終戦直前に掘られた大本営地下壕があることで有名だ。 私たちも松代の大本営地下壕を見学に行った。青山は3回目、池田は2回目である。 すでに大本営地下壕見学の時間を過ぎようとしていたが、担当者に東京から来たと伝えところ、特別に入場を許された。入場料は無料である。 地下壕周辺は、下の写真にあるように周囲に500m級の山があるのんびりとした山村である。 地下壕の場所は、象山神社の南に位置しており、象山神社の駐車場に車をおき、そのまま徒歩で入り口まで行ける。 下の地図にあるように見学できる大本営の地下壕は通称、象山(475m)にあるが、その他、舞鶴山(559m)にもある。
大本営地下壕の総延長は5.9km、面積は2万3千平方mもあるが、現在、見学できるコースは下図にある500m分だけである。 以下は入り口横にある松代象山地下壕の鳥瞰図。左側に入り口(現在地)がある。 地下壕入り口 以下は地下壕入り口。入場時には必ずヘルメットの着用を義務づけられる。 以下は長野県長野市松代にある大本営跡の概要。出典:Wikipedia ■松代大本営跡(まつしろだいほんえいあと) 太平洋戦争末期、日本(当時の大日本帝国)の国家中枢機能移転のために長野県埴科郡松代町など(現在の長野市松代地区)の山中に掘られた地下坑道跡。象山、舞鶴山、皆神山の3箇所が掘削された。また舞鶴山地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現在の宮内庁)として予定されていた建物も残っている。 太平洋戦争以前より、海岸から近く広い関東平野の端にある東京は、陸軍により防衛機能が弱いと考えられていた。そのため本土決戦を想定し海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を進めていた。太平洋戦争で1944年7月にサイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になった。同年同月、東條内閣最後の閣議で、かねてから調査されていた長野松代への皇居、大本営、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。 初期の計画では、象山地下壕に、政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。皆神山地下壕に皇居、大本営の施設が予定されていた。しかし、皆神山の地盤が脆く、舞鶴山地下壕に皇居、大本営を移転する計画に変更される。また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。 土地の買収は役場を通じて軍が行った。当時は養蚕が重要であったので桑畑は程度により買収金額が三段階に分かれていた。買い上げた土地のうち戦後に不要になったものは買い上げ価格の半値程度で払い下げられた。 1944年11月11日11時11分、象山にて最初の発破が行われ、工事が開始された。ダイナマイトで発破して、崩した石屑をトロッコなどを使った人海戦術で運び出すという方法で行われた。 昭和天皇の神器を奉じて帝都を動かずとの考えによって、内廷皇族では皇太子明仁親王(今上天皇)、義宮(常陸宮)、皇女以外は東京から疎開する気は無かったと言われる。しかし、6月中旬には宮内省の関係者が訪れ、内大臣の木戸幸一の日記(木戸日記)の1945年7月31日付けに信州に行くことの具体化を相談している記述があり、終戦直前には移動を本気で考えていたと思われる。 松代大本営建設作業にあたっては朝鮮半島より徴用された労働者が中心となった。工事は西松組や鹿島組が請け負った。当時飯場で賄いをしていた人などからの聞き取り調査では、地下壕の中で掘削のために働いていた朝鮮人労働者には1日に白米7合、壕の外で資材の運搬などで働く人には白米3合が配給され、他にそれぞれ麦やトウモロコシなどが配られていた。 なお松代大本営は主に陸軍において計画・推進されたものであるが、さらに戦局が悪化した終戦直前になって、連合国軍が南九州に上陸するとの想定のもと、より作戦が取りやすいという理由などから、奈良県天理市の一本松山付近に大本営と御座所を移すという計画が主に海軍により立てられ、実際に工事が進められていた。 大本営松代地下壕の内部 大本営松代地下壕の内部 大本営松代地下壕の内部 大本営松代地下壕の内部 大本営松代地下壕の内部(見学できる最先端部) 大本営松代地下壕の内部 大本営松代地下壕の内部 大本営松代地下壕の内部 なお、大本営地下壕の建設では、朝鮮半島から多くのひとびと(現在でいう大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国)の人々が強制連行されてきた。それらのひとびとは厳しい監督下での昼夜兼行の強制労働で食料も都簿素行く、発破や落盤の事故、栄養失調で志望したり、逃亡した者も少なくなく、さらに自殺したり待遇改善などを要求して射殺された者もいる。犠牲者の総数はは三百人とも推定されているが、千人という説もある。 以下は、それを追悼する記念碑案内文の全文である。
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