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秋の信州を歩く(7)
松代・大本営地下壕

青山貞一池田こみち・鷹取敦


28 September 2009
初出:独立系メディア「今日のコラム」
無断転載禁


 松代と言えば、言わずと知れた太平洋戦争の遺跡、終戦直前に掘られた大本営地下壕があることで有名だ。

 私たちも松代の大本営地下壕を見学に行った。青山は3回目、池田は2回目である。

 すでに大本営地下壕見学の時間を過ぎようとしていたが、担当者に東京から来たと伝えところ、特別に入場を許された。入場料は無料である。

 地下壕周辺は、下の写真にあるように周囲に500m級の山があるのんびりとした山村である。



 地下壕の場所は、象山神社の南に位置しており、象山神社の駐車場に車をおき、そのまま徒歩で入り口まで行ける。

 下の地図にあるように見学できる大本営の地下壕は通称、象山(475m)にあるが、その他、舞鶴山(559m)にもある。



<長野市観光課ののパンフより>

 松代象山地下壕は、第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦最後の拠点として、極秘のうちに大本営や政府各省等を松代に移すという計画の下に構築したものです。

 着工は昭和19年11月11日午前11時。翌20年8月15日の終戦まで、約9ヶ月の間に当時の金で約2億円の巨費と、およそ述べ300万人の住民及び朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され、1日3交替徹夜で工事が進められました。

 食糧事情が悪く、工法も旧式な人海作戦を強いられ、多くの犠牲者を出したと言われています。

 松代象山地下壕は、舞鶴山(現気象庁精密地震観測室)を中心に皆神山、象山の3箇所に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は10Km余りに及んでいます。全工程の75%の時点で終戦となり工事は中止されました。

 戦後は、訪れる人も少なく忘れ去られようとしていましたが、太平洋戦争の遺跡として多くの人々にこの存在を知っていただくため平成2年から見学できるようにセ維持したものです。

 地下壕の現況 総延長:5,853.6m 概算掘削土量:59,635立方m 床面積:23,404平方

 大本営地下壕の総延長は5.9km、面積は2万3千平方mもあるが、現在、見学できるコースは下図にある500m分だけである。



 以下は入り口横にある松代象山地下壕の鳥瞰図。左側に入り口(現在地)がある。




地下壕入り口

 以下は地下壕入り口。入場時には必ずヘルメットの着用を義務づけられる。





 以下は長野県長野市松代にある大本営跡の概要。出典:Wikipedia

■松代大本営跡(まつしろだいほんえいあと)

 太平洋戦争末期、日本(当時の大日本帝国)の国家中枢機能移転のために長野県埴科郡松代町など(現在の長野市松代地区)の山中に掘られた地下坑道跡。象山、舞鶴山、皆神山の3箇所が掘削された。また舞鶴山地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現在の宮内庁)として予定されていた建物も残っている。

 太平洋戦争以前より、海岸から近く広い関東平野の端にある東京は、陸軍により防衛機能が弱いと考えられていた。そのため本土決戦を想定し海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を進めていた。太平洋戦争で1944年7月にサイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になった。同年同月、東條内閣最後の閣議で、かねてから調査されていた長野松代への皇居、大本営、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。

 初期の計画では、象山地下壕に、政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。皆神山地下壕に皇居、大本営の施設が予定されていた。しかし、皆神山の地盤が脆く、舞鶴山地下壕に皇居、大本営を移転する計画に変更される。また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。

 土地の買収は役場を通じて軍が行った。当時は養蚕が重要であったので桑畑は程度により買収金額が三段階に分かれていた。買い上げた土地のうち戦後に不要になったものは買い上げ価格の半値程度で払い下げられた。

 1944年11月11日11時11分、象山にて最初の発破が行われ、工事が開始された。ダイナマイトで発破して、崩した石屑をトロッコなどを使った人海戦術で運び出すという方法で行われた。

 総計で朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が12時間二交替で工事に当たった。最盛期の1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が作業に従事した。当時の金額で2億円の工事費が投入されたと伝わっている。しかし、1945年8月15日の敗戦により、進捗度75%の段階で、工事は中止された。

 昭和天皇の神器を奉じて帝都を動かずとの考えによって、内廷皇族では皇太子明仁親王(今上天皇)、義宮(常陸宮)、皇女以外は東京から疎開する気は無かったと言われる。しかし、6月中旬には宮内省の関係者が訪れ、内大臣の木戸幸一の日記(木戸日記)の1945年7月31日付けに信州に行くことの具体化を相談している記述があり、終戦直前には移動を本気で考えていたと思われる。

 松代大本営建設作業にあたっては朝鮮半島より徴用された労働者が中心となった。工事は西松組や鹿島組が請け負った。当時飯場で賄いをしていた人などからの聞き取り調査では、地下壕の中で掘削のために働いていた朝鮮人労働者には1日に白米7合、壕の外で資材の運搬などで働く人には白米3合が配給され、他にそれぞれ麦やトウモロコシなどが配られていた。

 当時の食料事情を考慮(一般の日本人国民への配給は、米(白米ではない)2合3勺とわずかばかりの副菜であり、白米は禁止されている)すると待遇は良く、軍が大本営建設を重視していた表れではないかと見られている。

 終戦後、朝鮮半島出身の帰国希望者には列車、帰還船を用意し、一人当たり250円の帰国支度金が支払われ1945年の秋にはほとんど富山港から帰国させることができた。また壕周辺にいわゆる慰安所は3ヶ所あり4〜5人の朝鮮人の慰安婦がこれらの施設を回っていた。ただしこれは軍人用のものではなく、朝鮮人労働者を監督する立場にあった朝鮮人用のものであった。

 なお松代大本営は主に陸軍において計画・推進されたものであるが、さらに戦局が悪化した終戦直前になって、連合国軍が南九州に上陸するとの想定のもと、より作戦が取りやすいという理由などから、奈良県天理市の一本松山付近に大本営と御座所を移すという計画が主に海軍により立てられ、実際に工事が進められていた。



大本営松代地下壕の内部


大本営松代地下壕の内部


大本営松代地下壕の内部


大本営松代地下壕の内部


大本営松代地下壕の内部(見学できる最先端部)


大本営松代地下壕の内部


大本営松代地下壕の内部


大本営松代地下壕の内部

 なお、大本営地下壕の建設では、朝鮮半島から多くのひとびと(現在でいう大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国)の人々が強制連行されてきた。それらのひとびとは厳しい監督下での昼夜兼行の強制労働で食料も都簿素行く、発破や落盤の事故、栄養失調で志望したり、逃亡した者も少なくなく、さらに自殺したり待遇改善などを要求して射殺された者もいる。犠牲者の総数はは三百人とも推定されているが、千人という説もある。

 以下は、それを追悼する記念碑案内文の全文である。
 
追悼平和記念碑案内

 太平洋戦争末期に、本土決戦に備えて大本営の移転と国体(天皇制)護持のため、軍の命令によって、防衛上の観点から選ばれた松代を中心に、大本営と皇居(舞鶴山)、政府機関と日本放送協会・中央電話局(象山)、皇族住居(皆神山・後に食料庫に変更)、賢所(弘法山)、受信施設(妻女山)などを移転する大工事が秘密裏に企画された。

 1944年11月11日から45年8月15日、敗戦の日まで続けられたこの工事には、東部軍、工兵隊、熱海鉄道教習所生徒、および産業報国隊・勤労報国隊の徴用者や学徒・学童も多数動員されたが、地下壕掘削などの中心的役割を果たしたのは、当時植民地下の朝鮮(大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国)からの多くの強制連行者を含む約六千人の人々であった。

 その工事は、厳しい監督下での昼夜兼行の強制労働で食料も都簿素行く、発破や落盤の事故、栄養失調で志望したり、逃亡した者も少なくない。さらに自殺したり待遇改善などを要求して射殺された者もおり、犠牲者は三百人とも推定されているが、千人という説もある。

 しかし、戦後、郡部等による関係資料の焼却などにより、犠牲者氏名はほとんど不明であり、今日までに氏名が判明したのは強制連行され強制連行された朴道三・金快述の他、飯場頭の趙徳秀、中野次郎の四人にすぎない。

 この工事では、住民も土地を強制買収され、特に松代の西条地区では仮皇居の建設工事で百戸以上が立ち退きを強制されたりしたが、住民や徴用者と朝鮮(韓国・朝鮮)人との関係は友好的な面もあって、そのきずなは今日も途絶えていない。

 この大地下壕を中心とする「松代大本営」は、太平洋戦争と朝鮮植民地化に象徴される日本のアジア侵略の歴史と、その反省を永遠に刻む歴史的遺跡であり、この碑の建立と壕の見学が、なお残る民族差別の克服と友好親善の新たな第一歩となることを切に願うものである。

1995年8月10日

                 松代大本営朝鮮人犠牲者慰霊碑建立実行委員