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秋の信州を歩く(5)
松代・文武学校

青山貞一池田こみち・鷹取敦


27 September 2009
初出:独立系メディア「今日のコラム」
無断転載禁


 長野市松代で象山神社では、松代藩の武家屋敷、文武学校にも立ち寄った。長野市松代は、江戸時代、松代藩があった場所である。


■今に残る松代藩の武家屋敷

 その松代藩は、信濃国埴科郡松代町(現在の長野県長野市松代町松代)にあった藩である。信濃国内の藩では最高の石高を有した。松代藩は松代城を居城とし川中島四郡を領した。藩主は、酒井家(左衛門尉)、松平家(越前)、真田家が就封した。

 下の写真は今に残る松代藩の武家屋敷。


今に残る松代藩の武家屋敷


今に残る松代藩の武家屋敷


旧臼井家表門。文武学校のはす前にある

 以下は松代の主要ポイント地図である。文武学校は、象山神社から歩いて10分程度の距離にあるが、文武学校近くには無料駐車場もある。松代の史跡・名跡などをじっくり見て回るためには、最低1日は必要である。


出典:文武学校入場時パンフレットより


■松代藩の文武学校

 松代藩の文武学校が、ほぼ往時の姿で見れる。入場料は大人一人200円である。

 以下は文武学校のパンフより。

 松代には、藩士の子弟の学問、武芸を奨励するため真田家第8代藩士である幸貫は、佐久間象山らの意見を受け、蘭学、西洋砲術などを積極的に取り入れ、藩校として文武学校の開発を目指す。第9代藩主の幸教はその意志を受け継ぐこととなり、嘉永6年(1853年)に文武学校の建築物が竣工し、安政2年(1855年)に文武学校が開港したという。

 幕末期の儒学中心の藩校から近代的な学校教育の場としての学校建設への過渡期の建築物といえる。そのため、孔子廟ははじめからつくられず、文武学校は文学所、御役所、教室2棟(東序、西序)、剣術所、柔術所、弓術所、槍術所、文庫蔵、番所、問などがなっている。


文武学校の入り口にて 





 ここでは、8歳から14歳くらいまでは文学などの勉強を、15歳から35歳までは武芸を習ったとされている。

 明治元年(1868年)には、フランス式の兵制に詳しい武田斐三郎をマネキ、文武学校の中に兵制士官学校を設置している。

 しかし、明治3年に廃校し、明治4年には西洋兵学士官学校がつくられた。廃藩置県後は、近代の学校として使われ、松代小学校の校舎にもなっている。

 昭和28年に国の史跡に指定され、昭和54年から一般公開されている。




文武学校の門を入って正面にある文学所の建築物


文武学校にて。青山貞一


文武学校にて。左 鷹取敦、右 池田こみち



 下は文武学校の文学所。



 下は文武学校の槍術所。今でも現役で使われている。


文武学校の槍術所




文武学校の弓術所


文武学校の稽古日(1855年)



※松代関連写真集


つづく