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吉野川第十堰「みんなの会」解散へ
可動堰中止を実現し新出発へ

青山貞一
25 May 2010
独立系メディア「今日のコラム」
無断転載禁


 昨日(2010年5月24日)、Yoshinogawa という名称のメーリングリストで以下の新聞記事を含め多くの新聞記事が送られてきた。

吉野川第十堰:「みんなの会」解散へ 
「可動堰中止」を実現、通常総会で決議 /徳島

2010年5月24日毎日徳島版
http://mainichi.jp/area/tokushima/news/20100524ddlk36040317000c.html

◇新たなスタートを
 吉野川第十堰(ぜき)可動堰化問題を巡り活動してきたNPO法人「吉野川みんなの会」(豊岡和美代表理事、会員121人)は23日、徳島市内で通常総会を開き、「可動堰中止という最大の目的が実現できた。新たなスタートを切るべきだ」として解散を決めた。
 第十堰を巡っては3月、前原誠司国土交通相が、可動堰を作らず第十堰を残す前提で治水対策を検討するよう指示している。
 総会では、初代代表を務めた理事の姫野雅義さん(63)が、「(10年前に徳島市の住民投票で示された)可動堰反対の民意を結果に結びつけたが、賛成派・反対派の固定化と無関心派の増加が進んでいる。
 第十堰をどう残すか自由に議論できる状況が必要。可動堰賛否のレッテルで住民が区別される時代は終わりにしたい」と主張。「第十堰保全を整備計画に盛り込む」などの残る課題については、「それぞれの問題に特化した運動体が頑張る必要がある」と指摘し、解散の必要性を訴えた。
 出席者からは「政権が変われば、どうなるか分からない」などの意見もあったが、若い世代の活動を評価する声などが出て、運営会員の4分の3以上の賛成で解散を決めた。6月にシンポジウムを行った後、実質的な活動を終える。
【深尾昭寛】

 よく読むと、吉野川第十堰可動堰化問題を巡り活動してきたNPO法人「吉野川みんなの会」(豊岡和美代表理事、会員121人)がこの5月23日、徳島市内で通常総会を開き、「可動堰中止という最大の目的が実現できた。新たなスタートを切るべきだ」として解散を決めた、という。

 吉野川第十堰の保存は、同時に可動堰の建造を阻止したという意味で、まさに「脱ダム」の元祖ともいえるものだ。感無量である。

....

 ところで青山貞一や池田こみちらが設立し以来19年間、環境問題の専門家らが全国各地のNPO/NGOを技術的、法律面で支援する「環境行政改革フォーラム」がある。

 ちなみに、環境行政改革フォーラムの公式Webのエントランス左にある夕陽の写真は和歌山県雑賀崎で撮影したものである。

 その環境行政改革フォーラムが和歌山市の雑賀崎で総会を開催する際に、地元徳島市の姫野氏らの呼びかけで、まず徳島市に集合し、第十堰を視察し、議論した翌日、フェリーで徳島港から和歌山港に行き、総会を行ったことがある。

 下は吉野川第十堰を裸足でわたる池田こみちさんである。周知のように吉野川の幅員は非常に広く、対岸が見えないほどだ。


吉野川第十堰を裸足でわたる池田こみちさん 
撮影:青山貞一、Fujifilm Digital Camera 2000.6.9

 下はみんなの会の前身でもある吉野川第十堰市民環境アセスメントの会と環境行政改革フォーラムの合同で開催した「吉野川・第十堰アセス・フォーラム」の記事である。

 この会議には、青山(当時環境総合研究所長)、池田(環境総合研究所副所長)の他、原科東京工大教授らも環境行政改革フォーラム側のメンバーとして参加した。


徳島市で開催されたフォーラムの徳島新聞の記事

 一方、和歌山市の雑賀崎で行った環境行政改革フォーラムの総会には現在外務副大臣をしている福山哲郎参議院議員(当時は民主党参議院の副会長)も駆けつけた。

 フォーラムの専門家が間に入り、不要な公共事業の一部として和歌山港を拡大する港湾計画に対して地元団体と議論、最終的に計画の策定予算を全面削除させている。

 江戸時代に建造された吉野川第十堰を保存する市民団体の活動を少しでも支援できればという思いからである。


吉野川第十堰の概要
 吉野川第十堰(よしのがわだいじゅうぜき)は、徳島県の板野郡上板町第十新田(北岸側)および名西郡石井町藍畑第十(南岸側)にある堰。
 吉野川を分流するために設けられている。「第十堰」というが「第十」は地名であって吉野川にある十番目の堰というわけではない。また「河口堰」と表現されることもあるが、河口からは約14キロメートル離れている 

●吉野川第十堰の歴史
 1672年(寛文12年)、蜂須賀綱通により徳島城の防御を固めるため、吉野川と別宮川を接続する水道を開削する工事(新川掘抜工事)が行われた。その後の洪水でこの水道が拡大し、別宮川が吉野川本川となった(正確に名称が変わるのは、1932年(昭和7年)である。
 これまでの別宮川へと流れる河川を「吉野川」に、第十堰地点から流れ込んでいた吉野川は「旧吉野川」に名称が改められ、今日に至っている)。
 その結果、旧吉野川に流れる水量が減少し、水稲栽培に影響が出るようになったため、1752年(宝暦2年)に水位をかさ上げし、旧吉野川への流量を確保する堰が当時の第十村(現在の石井町)につくられた(「第十堰」の名はこの村の名前に由来する)。
 第十堰建設は吉野川における藩政最大の土木工事であり、1736年(享保21年)に徳島藩が命じられた遠州大井川御手伝普請の際に習得した最新のノウハウが役立ったものと考えられる。その後も新川の拡大により、何度かの継ぎ足しが行われ、現在の形に至る。
 現在も当時の姿の青石組みが残され、堰としても有効に機能しているといわれている。 
出典:Wikipedia


吉野川第十堰の位置図