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「カティンの森事件」追悼式典に
行くポーランド政府専用機墜落

青山貞一
10 April 2010
独立系メディア「今日のコラム」
無断転載禁


概要

 ポーランドの大統領、中銀総裁、参謀総長を含む要人一行が乗ったロシア製航空機、ツポレフが、「カティンの森事件」の追悼式典に出席の途中で墜落し。搭乗者全員が死亡した。ロシアともEUとも一定の距離を置き、ポーランドの自立主義を唱えたカチンスキ大統領が死亡したこともあり、一部勢力の秘密工作が疑われる。他方、「カティンの森事件」の真相は70年経った今もその全容が分かっているとは言い難い。


■事実報道

 今年は、第2次世界大戦初期、旧ソ連が2万人以上のポーランド人捕虜を虐殺したとされる「カティンの森事件」から70年となる。

 この「カティンの森事件」に関連し、ロシアとポーランドの間で歴史的な和解に向かう動きが出ていた。

 2010年4月10日、ポーランド大統領やポーランド政府首脳、関係者が追悼式典に出席するため、ロシア西部のスモレンスク空港に向かう途中、着陸に失敗して墜落し、全員死亡した。この飛行機にはカティンの森事件で殺された兵隊の遺族も同乗していた。

 スモレンスクは、ベラルーシュとロシアの国境線から60kmロシア側でモスクワの西にある地域。70年前、ソ連によりポーランド軍隊が約2万人虐殺された「カティンの森事件」の現場に近い。

 下はツポレフの脱落現場。


出典:NHK定時ニュースより
 
 下は、ポーランドの政府専用機(ロシア製ツポレフ)


出典:NHK定時ニュースより

 死亡者の中にはポーランドのカチンスキ大統領はじめ、政府の一行ら少なくとも96人が含まれるという。

 なお、これに先立ちこの4月7日、ロシアのプーチン首相はポーランドのトゥスク首相を追悼式典に招き、「スターリンの犯罪」に言及していた。

 下は昨年、ワルシャワを訪問したときに撮影したポーランド大統領の官邸。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.8  

 下はその大統領官邸前で花を捧げ追悼するワルシャワ市民。


出典:ロイター

 ポーランドの現職大統領のカチンスキ氏は、反ロシアを旗幟鮮明にしていたが、「カティンの森事件」から70年になることにあわせ、4月7日のロシアのプーチン首相はポーランドのトゥスク首相が行った追悼式典とは別に、ポーランド関係者が行う追悼式典に出席するため、現地に向かう途中の出来事であった。


 なお、「カティンの森事件」については以下を参照されたし。出典はWikipedia。

■「カティンの森事件」解説

 1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両方に侵攻されたポーランドは敗北した。ソ連の占領下に置かれたポーランド東部では、武装解除されたポーランド軍人や民間人がソ連軍の捕虜になり、強制収容所へ入れられた。

 1940年9月17日のソ連軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人をふくむ230,672人と訂正した。

 ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして何度もソ連側に問い合わせを行っていたが、満足な回答は得られなかった。1941年の独ソ戦勃発後にはポーランド・ソ連間で条約(en)が結ばれポーランド人捕虜は釈放され、部隊が編成されることになった。

 しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1に満たなかった。ポーランド亡命政府は捕虜の釈放を正式に要求したが、ソ連側はすべてが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。12月3日にはポーランド亡命政府首相・シコルスキがスターリンと会談したが、スターリンは「たしかに釈放された」と回答している。

 ポーランド人捕虜はコルジェスク、スタロビエルス、オスタシュコフの3つの収容所へ分けて入れられた。その中の1つの収容所において1940年の春から夏にかけて、NKVDの関係者がポーランド人捕虜に対し「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」という説明を行った。

 この知らせを聞いた捕虜達は皆喜んだが、軍隊用語で「西へ向かう」という言葉が不吉な意味を示すことを知っていた少数の捕虜は素直に喜べなかった。彼らは列車に乗せられると、約束通り「西へ向かい」そのまま消息不明となる。

 遺棄された犠牲者の死体スモレンスクの近辺グニェズドヴォでは1万人以上のポーランド人捕虜が列車で運ばれ、銃殺されたという噂が絶えなかった。独ソ戦の勃発後、ドイツ軍はスモレンスクを占領下に置きこの情報を耳にした。

 1943年2月27日、ドイツ軍の中央軍集団の将校はカティン近くの森「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。3月27日には再度調査が行われ、ポーランド人将校の遺体が7つの穴に幾層にも渡って埋められていることが発覚した。


遺棄された犠牲者の死体
出典:Wikipedia

 報告を受けた中央軍集団参謀・ゲルスドルフ少将は「世界的な大事件になる」と思い、「国際的に通用しやすい名前」である「カティン」の名を取って「カティン虐殺事件」として報告書を作成、これは中央軍集団から国民啓蒙・宣伝省に送られた。宣伝相・ゲッベルスは対ソ宣伝に利用するために、事件の大々的な調査を指令した。


発掘されるカティンの森(ロシア西部)
出典:Wikipedia

 ソ連は1944年にカティンの森を再調査し、死体を再び掘り起こした。同年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはカティンの森事件の情報を収集するためにジョージ・アール大尉を密使としてバルカン半島に送り出した。

 アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触してソビエト連邦の仕業であると考えるようになったがルーズベルト大統領にこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルト大統領はそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールは任務からはずされ、戦争の残りの期間をサモアで過ごすこととなった。

 1946年、ニュルンベルク裁判においてソ連の検察官はカティンの森での虐殺についてドイツを告発。彼は「もっとも重要な戦争犯罪の内の1つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である」と述べている。しかしアメリカとイギリスがこの告発を支持しなかったため、カティンの森事件についてはニュルンベルク裁判では一言も述べられていない。

 この事件の責任が誰にあるのかについては西側でも東側においても議論が続けられたが、ポーランド統一労働者党の幹部たちはこの事件についてソビエト連邦に遠慮してか誰も真相を究明しようとはしなかった。この真相を問われることのない状態は1989年にポーランドの共産主義政権が崩壊するまで継続した。

 1952年に米国議会でカティンの森事件がソ連内務省によって1939年に計画され、赤軍によって殺害が実行されたと認定された。また1970年代後半のイギリスでは事件の1940年の日付で犠牲者のための記念碑をつくる計画があったが、冷戦下の政治情勢を刺激するとして非難された。

 1989年、ソ連の学者たちはスターリンが虐殺を命令し当時の内務人民委員部長官・ベリヤ等が命令書に署名したことを明らかにした。

 1990年、ゴルバチョフはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)を含めてソ連の内務人民委員部がポーランド人を殺害したことを認めた。

 1992年、ソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第1号から公開した。その中には西ウクライナ、ベラルーシの本当の囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書やソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や21,857人のポーランド人の殺害が実行され彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたフルシチョフあての文書も含まれている。

 2007年にポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダによって、この事件を題材とした映画『カティンの森』が制作される。ワイダの父親もこの事件の犠牲者である。

 なお、カティンの森事件については以下の映画となっている。

【映画の原題】 KATHIN
上映時間 2時間2分 / ポーランド

監督 アンジェイ・ワイダ
Cast マヤ・オスタシェフスカ
    アルトゥル・ジェミイェフスキ
    ビクトリャ・ゴンシェフスカ
    マヤ・コモロフスカ
    アンジェイ・ヒラ
    ダヌタ・ステンカ
    
<見た人の感想>
1939年ドイツに続きソ連の侵略。ソ連の捕虜となったポーランド人将校が行方不明となり、1943年に発見された数千人の遺体。長い間ドイツはソ連の犯罪とし、ソ連はドイツによる犯罪としたが、ソ連の影響下にあったポーランド人民共和国(当時)は真実を追究出来ずにいた。ロシアのゴルバチョフ書記長が始めたペレストロイカ(改革)の一環であるグラスノスチ(情報公開)により、1992年にはエリツィン大統領がスターリンの命令によるものと言明。歴史が正しく明らかにされるまでの長い歳月、戦争の悲劇は続いていた。真実を語り死を選ぶか、相手に屈し生き残るか。究極の選択を迫られるとしたら、自分はどんな道を選ぶだろうか。