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中津の歴史探訪

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福沢諭吉記念館

青山貞一

掲載日:2008年7月13日
独立系メディア E-wave Tokyo
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●はじめに

 2008年正月の5日と6日、福岡県の豊前市と大分県の中津市に九州自動車道の環境調査にでかけた。6日の午後、調査が一段落し、時間が出来たので、中津の歴史探訪に出かけた。

 中津には幕末から明治維新にかけ活躍した歴史的な偉人や史跡、歴史的建造物が多数ある。探訪者は、中津駅から中津川の間の地域で、それら史跡や歴史的建造物の大部分を往時の町並みさながらに、歩いて見てまわれる。


撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10

 この地は、江戸時代、中津藩として全国にその名をならした。中津藩は、豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した藩であった。藩庁は中津城に置かれ、一時、藩庁は小倉城に移されたこともある。

 豊前市と中津市は、江戸時代にはもともと一体であったようだが、廃藩置県以降、福岡側にあった中津は大分県の北端の市町村に組み入れられた。平成の大合併の時、長野県と岐阜県の間で県を超える合併問題があったが、似たような話がこの地にももあるようだ。

 たまたま同僚の池田こみちさんが7月12日、別件で中津を訪れたこともあり、正月に撮影した写真を元に、「中津の歴史探訪」を書いてみた。


中津は自由民権運動と蘭学・医学・薬学発祥の地

 中津は、福沢諭吉はじめ自由民権運動家、蘭学者、医者、医学者、薬学者、教育者、実業家などの分野で卓越した人材を多数輩出している。そのなかには、前野良沢、杉田玄白はじめ、我が国を代表する医学者の名も含まれている。以下に主な人の名前と分野を掲げる。

福沢諭吉、増田宋太郎(民権)、田代基徳(外科)、浜野定四郎(慶應義塾初代塾長)小幡英之助(歯科)小幡篤次郎(慶應義塾塾長、貴族院議)、奥平昌鹿(中津藩主)、奥平昌高(蘭学者)、辛島正庵(蘭方医)、村上玄水(医者)白石照山(儒学者・教育者)、大江雲沢(藩医)、前野良沢(蘭学者、藩医)、杉田玄白(外科医)、村上田長(医者、ジャーナリスト、教育者)、田原淳(心臓病理学)、川村矯一郎(政治活動家)、宇都宮仙太郎(酪農の指導者)、渡邊重名(藩国学者)、水島銕也(教育者)、中上川彦次郎(実業家)、朝吹英二(実業家)、和田豊治(実業家)、磯村豊太郎(実業家)、伊與田光男(実業家)ら

 ちなみに櫻井よしこさんも中津の出身である。

 下の地図は、福沢諭吉記念館、12の寺院がある寺町、中津城などを示したものである。右上の河は中津川。


中津の歴史文化、遺跡探訪マップ
現在位置は福沢諭吉記念館。地図の北西に中津城、南西に寺町がある。
 出典:中津市役所


●福沢諭吉記念館

 大阪で生まれ育った福沢諭吉は、家族とともに中津に移住する。諭吉については、以下のブログ(論考)をご覧いただきたい。

 ◆青山貞一:中津で探した福沢諭吉の知られざる3著作


福沢諭吉の主な著作:出典:福沢記念館

 なお、中津では福沢諭吉の慶應義塾が有名だが、中津には福沢諭吉、緒方洪庵はじめ「適塾」出身者が多い。

 適塾(てきじゅく)とは、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾のことである。

 正式には適々斎塾という。また、適々塾とも称される。緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来である。適塾は、幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く輩出している。また、適塾は今の大阪大学の源流のひとつとなっているそうだ。

 上述したように中津には、緒方洪庵はじめ福沢諭吉、田代基徳(外科医)ら「適塾」関係者が多い。

 以下は適塾の歴史。

  • 1838年(天保9年) 洪庵が瓦町に蘭学塾を開く。
  • 1845年(弘化2年) 過書町(現在の大阪市中央区北浜3丁目)の商家を購入し移転。
  • 1846年(弘化3年) 大村益次郎が入門。
  • 1855年(安政2年) 福澤諭吉が入門。
  • 1862年(文久2年) 洪庵が江戸幕府奥医師および西洋学問所頭取となり、江戸に移住。塾生の教育には緒方拙斎(養子)が当たった。
  • 1863年(文久3年) 洪庵が江戸で客死。
  • 1868年(明治元年) 適塾閉鎖。


つづく