エントランスへはここをクリック   

第3回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2013-6
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune

初夏のアマルフィ海岸を行く
 7日目

アマルフィ公国とは@

    青山貞一・池田こみち  2013年6月14日
 独立系メディア E-wave Tokyo  無断転載禁


 2013年アマルフィ海岸現地視察調査報告<125本 全体メニュー>


     
アマルフィ海岸の位置  アマルフィの紋章  イタリア国旗


 ここで、先に行く前にアマルフィ海岸そしてアマルフィ公国についておさらいをしておきましょう!

◆アマルフィ公国の歴史 

 アマルフィの起源は古代ローマ時代にまで遡ります。アマルフィはその特異な地形によりティラニア海に面し、かつ複雑な山岳地形に囲まれて、外敵の侵入を撃退するのに適していました。

 西暦838年、ランゴバルト人によりアマルフィのまちは破壊され、アマルフィの住民はサレルノに移住させられました。しかし、アマルフィの住民はアマルフィの沿岸地域に戻り、その地に居住を再度開始しアマルフィのまちを再建したのです。それがアマルフィの誕生とされています。9世紀のことです。

 その後、839年、アマルフィはナポリ公国から独立を宣言します。アマルフィはアマルフィ公国となるとともに、イスラーム勢力との幾たびかの激しい抗争のなかで、徐々にその勢力を拡大させて行くことになるのです。

 872年、アマルフィはサルディニア島の一部、サン・サルヴァトーレ島を守っていたイスラーム軍を海戦で撃破します。この功績によりアマルフィ公国は東ローマ帝国からカプリ島を譲渡されることになります。アマルフィはイスラーム勢力と対立しただけでなく、商業上の利益から同盟を結ぶこともありました。


8世紀初頭のイタリア。オレンジ色はランゴバルド王国、
黄色及びピンク色は東ローマ帝国領。ただしピンク色は係争地
出典:Wikipedia Italiano

 その後もアマルフィは、アマルフィ公国の首都、貿易拠点として発展します。一時は北部イタリアのピサやヴェネツィア、ジェノヴァと地中海の覇権を争い、さらに黒海にも商業の活動範囲を広げました。例えば、現在ウクライナの都市、セヴァストポリ(クリミア、現在ウクライナから独立)に、アマルフィ港との交易の痕跡が残されていることからも、このことが分かります。


クリミアのセバストポリ    出典:グーグルマップ

 11世紀、海洋交易に長けたアマルフィの商人らは、東ローマ帝国のコンスタンチノープルやアンティオキアにある教会や修道院などに居留地を持ちました。その交易の範囲は北アフリカのトリポリやアレクサンドリア、チュニスから西はスペインの港にまで広がっていたのです。アマルフィの商人はローマ教皇の商人としても大活躍し、ジェノヴァやピサと密接な関係を持つまでになりました。

 11世紀後半、アマルフィ、ナポリ、ガエタの三都市は商業でめざましい発展をとげます。アマルフィは形の上では東ローマ帝国(ビザンチン帝国)に属する公国のひとつにすぎなかったものの、周囲をランゴバルド系の公国に囲まれていたことから自律的な公国としての地位を確立、維持していました。

 しかし、アマルフィを含めイタリアノ都市国家はたびたびサラセン(イスラム帝国)の脅威を受けことになります。

◆サラセン Saracen

 ヨーロッパの中世において用いられたイスラム教徒(ムスリム)に対する呼称です。古くは,ギリシア人やローマ人がシリアやアラビア半島のアラブをさして呼んだギリシア語のサラケノイSaraknoi、ラテン語のサラケニSaraceniなどの語に由来していますが、その語源はアラビア語のシャルクsharq(〈東〉の意),サフラーSahra(〈砂漠〉の意)など諸説があり定説はありません。2世紀のプトレマイオスはその地理書でサラセンの語を用いアラブに言及しています。
                                                出典:コトバンク

 かくしてアマルフィは、イタリア最古の交易都市として11世紀をピークに、10世紀から12世紀までの200年間、ティレニア海における最大の交易都市となったのです。
 
 アマルフィの人々は、航海に関する法典「アマルフィ海法」を作成しています。この法典はさまざまな海洋に関する法典の雛形となり、17世紀まで大きな影響力を持ちました。また、中国からイスラーム世界に伝わった製紙法がシチリア島経由でアマルフィにもたらされ、13世紀には製紙産業が勃興していたのです。

 アマルフィの最盛期は11世紀に達成され、その後急速に衰退した。1131年にはノルマン人による征服、1135年、1137年はピサによる略奪、そして1343年での嵐によって都市の大部分が破壊された。


●版図に見るアマルフィの交易範囲

 下は1000年頃のイタリア半島。紫色のなかに黄色で示されている小さい国がアマルフィです。


11世紀(1000年)のイタリア。アマルフィ公国が見える
出典:Wikipedia Italiano

 アマルフィ公国(Ducato di Amalfi)またはアマルフィ共和国(Repubblica di Amalfi)は、南イタリアのアマルフィを中心に9世紀から12世紀にかけて存在した海洋都市国家群を指します。当時、イタリアには北部にヴェネッチア、ヴェローナ、ピサなどが、中部にローマやカプアが、そして南部にアマルフィやされるもが、さらにシチリア島にはパレルモが都市国家として存在していたことになります。

 アマルフィはピサ、ジェノバ、ヴェネツィアなど、北部の都市国家が台頭するまで、イタリアの商業の中心地として地中海貿易を支配していました。


アマルフィ共和国の守護神、セントアンドリュー 出典:Wikipedia Italiano

 
アマルフィ公国の公国旗             カンパニアの旗

  最盛期のアマルフィ公国の国際交易の範囲は先に述べたように、北は現在のイタリアのヴェニス、フランス、西はスペイン、南はモロッコからチュニジア、エジプト、東はコンスタンチノープル、トルコ、中近東諸国rまで広範囲に及んでいたことになります。


最盛期のアマルフィの国際交易の範囲  出典:Wikipedia Italiano

 アマルフィは地中海貿易の先駆的存在であり、初めて海商法を整備した国であったことから、アマルフィの海商法は国家としてアマルフィが衰退した後も1570年頃まで使われ続けました。


つづく