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74の小さな命が
津波に消えた大川小
イジメ対応と同じ構図の
教育委員会
青山貞一 ・池田こみち
掲載月日:2014年12月3日
 独立系メディア E−wave Tokyo


 2014年11月30日(再放送12月1日)、NHK総合で、以下の番組を見た。3.11の津波で石巻市の大川小学校の生徒70名と教師10名が逃げ遅れ亡くなり、4名の生徒が依然として行方不明となったあの大惨事について、NHKが4年弱、継続的な取材を通じ、このたびNHKスペシャル(Nスペ)として放映したものだ。

シリーズ東日本大震災
悲劇をくり返さないために
〜大川小学校・遺族たちの3年8か月〜
NHK総合2014年12月1日(月)午前1時05分〜1時54分(30日深夜)

http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/1128/index.html


出典:NHK総合 悲劇をくり返さないために〜大川小学校・遺族たちの3年8か月〜


上側が北上川 中央が石巻市立大川小学校 1
そのすぐ横に裏山があることが分かる   
出典:NHK総合 悲劇をくり返さないために〜大川小学校・遺族たちの3年8か月〜


上側が北上川 中央が石巻市立大川小学校 2
そのすぐ横に裏山があることが分かる   
出典:NHK総合 悲劇をくり返さないために〜大川小学校・遺族たちの3年8か月〜


上側が北上川 中央が石巻市立大川小学校 3
そのすぐ横に裏山があることが分かる   
出典:NHK総合 悲劇をくり返さないために〜大川小学校・遺族たちの3年8か月〜


大川小学校跡(現在)   出典:グーグルアース

 NHKの公式WebにあるNスペの概要はこうだ。 

  津波で児童・教職員84人が犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校。学校管理下では被災地で最大の被害となった。「子どもたちの死を無駄してはならない。原因を明らかにし、悲劇を繰り返さないようにしたい」。そう願う遺族は少なくなかった。しかし、3年半が過ぎた今も納得は得られていない。それでも遺族たちは、失われた命を何とか意味あるものにしたいと、新たな道を探ろうとしている。ある遺族は、どんなときも命を最優先にすることの大切さを、亡きわが子と同世代の子どもたちに語りかける活動を始めた。震災から4年目を迎えた今も、葛藤を続ける遺族の姿を記録。悲劇を繰り返さないために何が必要なのかを考えていく。

 私達は、3.11以降、幾たびとなく福島、宮城、岩手の沿岸域の津波被災地に足を運び、その実態をデジカメやビデオカメラに収録し、独立系メディア E-wave Tokyoで公開してきた。

 そのなかには、岩手県の大槌町、宮古市田老地区、釜石市唐丹地区、陸前高田市、宮城県の石巻市雄勝地区、気仙沼市など甚大な人的被害を出した地域が多数あったが、とりわけ悲惨だったのは、石巻市の大川小学校であった。

 私達は結局、2011年〜2012年、3度石巻市の大川小学校に足を運んだ。北上川の河口から約4kmさかのぼったところに位置する大川小学校では、下校時、親が迎えに来て帰った数十名の生徒を除く、74名の生徒が犠牲となった。74名のうち4名は依然として行方不明となっている。

 以下はその模様をNHKがコンピュータにメーションで示したものである。


1段階 教室から校庭に出る
出典:NHK総合 悲劇をくり返さないために〜大川小学校・遺族たちの3年8か月〜


2段階  全員整列する
出典:NHK総合 悲劇をくり返さないために〜大川小学校・遺族たちの3年8か月〜


3段階  親などが迎えに来て帰った数十名(左側)
出典:NHK総合 悲劇をくり返さないために〜大川小学校・遺族たちの3年8か月〜


4段階  残った74名が教師に引率され北上川に移動 
この後津波にさらわれる  手前が裏山
出典:NHK総合 悲劇をくり返さないために〜大川小学校・遺族たちの3年8か月〜

 率直に言って、私達が最初に大川小学校を現地視察したときに感じたのは、なぜ、小学校の裏山に生徒を逃がさなかったのか? であった。

 下の写真の左に移っている構造物が小学校、背景にあるのが裏山である。


青山貞一の背後は大川小学校の裏山。
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10  2011.11.21


津波で被災し多くの児童と教職員が犠牲となった大川小学校
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10  2011.11.21


石巻市大川小学校の慰霊碑の前でお参りする池田こみち
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.21


犠牲者となった生徒のランドセル
出典:NHK総合 悲劇をくり返さないために〜大川小学校・遺族たちの3年8か月〜

 生徒達が校庭に待機させられていた時間は50分、もし、津波が来襲する10分前であれ、この裏山に生徒達を逃がしていれば、間違いなく全員が助かっていたであろう。さらに言えば、仮に10m〜15m高の津波があったとしても、子供達が木々にしっかり捕まっていれば、命を落とすことはなかったと思う。

 以下は池田がNスペを見て青山に送ってきた感想です。

>> 今日が本放送の日で、見ていました。他人事とは思えない
>> 悲劇ですね。親たちの涙が痛々しかった。
>>
>>  助かった子供へのヒアリングで、「子供の中に、裏山に逃げよう!」
>> と言い出した子がいたが、結局逃げずに、津波にのまれたというのが
>> ありました。なぜ、行動に移せなかったのかその理由を親たちは知り
>> たいのですが、教育委員会はそこをうやむやにしています。教育委員会
>> がとりまとめた報告書に、その証言は記載されていませんでした。
>>
>> 子供の命より他のことを重視したと言わざるを得ません。
>> 「事なかれ主義」が蔓延していたと言う親も居ました。
>>
>> 池田


 
事実、奇跡的に助かった子供へのNスペのヒアリングによると 、「子供の中に、裏山に逃げよう!」 と言い出した子がいたのだが、教育委員会は、この証言を含む資料を後日廃棄したと証言している。

 さらに、Nスペでは逃げ遅れの原因について、裏山に生徒を逃がす案もあったが、もし、子供がよじ登る際に
「怪我したら」とか、「服が汚れたら」など、さらに「万一津波がこなかったら」などという先生がいたりで、結局50分近く、生徒達は校庭にたたされたあげく、こともあろうか山側ではなく、北上川沿いの校庭より僅かに高い場所に全員で向かう途中、津波にさらわれているのである。

 番組では自身の子供(生徒)2名を津波で失った父母であり教員の佐藤氏に焦点をあてていた。佐藤氏は当初から責任追及のためのではなく、「子どもたちの死を無駄してはならない。原因を明らかにし、悲劇を繰り返さないようにしたい」という一心から、子供を亡くした父兄達の先頭に立って、教育委員会などとの議論、交渉に継続的に関わってきた。

 そこで見たものは、原因を知りたいという父母たちの思いとは逆に、原因を究明することが教員、学校、教育委員会に対する批判となること、原因究明=下手人捜し的なものとなることへの極度な恐れのような思いであった。

 その後、最近になって20数名の生徒の父母によって裁判が起こされる。これは何としても原因究明をしたい父母の思いからである。しかし、裁判後、教育委員会の保身は一段と加速度を増す。公判中であることを理由に、裁判に参加した父母そして参加しなかった父母への説明責任や情報開示を拒否するのである。

 周知のように、公立学校や教育委員会に勤務する者はいわば地方公務員であり、仮に原因の解明上、批判がでようとも、たとえば国家賠償訴訟法にあっては、特定の個人ではなく、組織、機構が賠償の対象となることになっている。

 もちろん、原因究明の結果、刑事告発、刑事告発など刑事罰を伴うような場合は、個人の責任はまぬがれず、訴追を受けることにもなるだろうが、もし、そのような事態が存在したとしたのなら、刑事事件となるのだから、これを隠蔽することは社会正義に著しく反することになるだろう。

 ところで、番組を見ていると、どこかで見た教育委員会の光景が焼き直し(デジャヴュ)のように見えてきた。それが何かと言えば、イジメで自殺した生徒に関連した全国各地の教育委員会の対応、態度である。

 そこにあるのは、生徒の命が架かっているにもかかわらず、保身的対応であり、証言などの情報を隠蔽してまで原因、真相をウヤムヤにする無責任な姿なのである。

 番組で気になったことがある。それは「子供の中に、裏山に逃げよう!」 と言い出した子の証言の中に、「1000年に一度の津波だから・・」という話が出たことだ。

 これについて、青山は日本の旧内務省の内部資料から明治三陸津波、昭和三陸津波などでも、3.11の死亡者数に比肩するあるいはそれ以上の被害者が同じ地域で起きていることをいくつかの論考に書いており、講演で何度も話している。

 以下にその一部を掲載する。見て分かるように、1896年の明治三陸津波の総被害者は、東日本大震災津波の被害者より遙かに多いのである。その意味で言えば、1000年に一度ではなく、せいぜい100年に一度であると言える。

          
       調査対象地域別津波犠牲者比較(推計未了)


岩手県            
                    津波被害者数

              2011年         1896年(推定値)
            東日本大震災津波   明治三陸津波

----------------------------------------------------------------
  大槌町       1,450人       900人 ( Max8.85m, Ave5.67m)
  釜石市       1,180人      8,181人 (Max14.6m, Ave11.9m)
  大船渡市        449人      3,143人 (Max26.13m, Ave11.16m)
  陸前高田市     2,098人        845人 (Max32.6m, Ave8.5m)

宮城県           津波被害者数

              2011年          1896年(推定値)
            東日本大震災津波    明治三陸津波

----------------------------------------------------------------
  気仙沼市      1,411人       1,467人 (Max21.5m, Ave7.32m)
----------------------------------------------------------------
 合計         6,588人       14,536人

( )内は最高波高と平均波高

出典:東京都市大学青山貞一研究室、環境総合研究所(東京都品川区)

<参考>
◆青山貞一・池田こみち:三陸海岸 津波被災地現地調査 E過去の津波被害

 子供が1000年に一度、という背景には、大人たちが子供にそうした情報を植え付けているとも思える。子供たちにはもっと史実、歴史をしっかりと教え、自分たちで判断し行動できるように教育し育てていく必要があると強く感じる。

 なお、以下は私達の2011年11月、第二回目の大川小学校現地視察の概要である。



●宮城県石巻市大川小学校(新規現地調査)

                       青山貞一 ・池田こみち











←石巻市
  11月21日


出典:マピオンをベースに作成
 
石巻市大川小学校

 今回の現地調査のひとつの大きな目的は、一度に70名以上の児童が亡くなった宮城県石巻市北部の大川小学校の現場を視察することにあった。 なぜ、多くの小学生が犠牲にならざるを得なかったのか、現場を確かめたかった。 

 現場を見て直ちに分かったことは、もし常日頃から津波があった場合は裏山に登る避難訓練をしていれば、犠牲者はゼロであったに違いないということだ。

 今回、宮城県調査では前回調査で未了となっていたもうひとつの地域、重要な地域である石巻市北部を視察した。

 場所は北上川が太平洋に流れ出る河口部近くである。具体的には石巻市釜谷地区、針岡地区、河口部の長面地区それに雄勝町である。

 石巻市は、宮城県内で最大の被害者を出した町である。宮城県庁発表の10月末時点のデータを見ると、被害者(死者及び行方不明者の合計)で多い順から見ると、石巻市の被害がいかに大きいかがわかる。


         死 者 行方不明   合 計
=======================================
@石巻市   3,180     688    3,868*
A気仙沼市  1,028    371     1,399
B東松島市  1,044     94     1,138
C名取市     911     65     976
D女川町     572    381     953
E南三陸町   564    333     897
F仙台市     704    26     730
G山元町     671     19     690

*注)石巻市の最新のデータによれば、死者3,279名、行方不明者669名で合計3,948名と報告されている。(2011年11月21日現在)

 石巻市は宮城県北部の中心都市として、これまで多くの町村を併合し、面積555.78ku、海岸線延長303.4km、総人口162,800人へと増加し、仙台市を除けば県内最大の都市である。市域内に女川町を内包しており、南部及び北部に総延長300km余の長い海岸線をもっていることが被害を大きくしたことは間違いない。

 地形的には牡鹿半島を挟んで石巻湾と追波湾に面し旧北上川と北上川に挟まれた広大な沖積低地に広がる町なのだ。市内の浸水被害地域は、石巻湾に面する地域、旧北上川流域、追波湾から北上川流域に集中している。


石巻市浸水地域図
http://www.city.ishinomaki.lg.jp/mpsdata/web/7286/033102.jpg


◆新北上大橋にかかる虹の橋

 11月21日最終日は朝から天候が悪く、時折、霙や雨が降っていた。南三陸町から国道398号を南下して志津川湾から越波湾沿いに石巻市に入るといつのまにか、広大な北上川の河口へとつながり、左岸を新北上大橋まで5kmほど走る。

 ちょうどそのころに雨が降り出し、空は暗くなって北上川沿岸地域の被災状況を撮影にも支障を来すほどだったが、新北上大橋を渡って大川中学校から大川小学校に着く頃には雨も止み、なんと、北上川に大きくてきれいな虹の橋が架かっていた。



大川小学校近くの北上川にかかる虹
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.21

 虹の橋を端から端まで見たのは何年ぶりだろうか。

 まるで犠牲になった大川小学校の子どもたちの魂を天国に導く橋のようにも思えた。虹の橋ははかなく消えていったが、ここで犠牲になった子どもたちの命は将来に貴重な教訓を残してくれたに違いない。

 子どもたちの魂がやすらかに眠れるように、残された大人たちはしっかりと学校や地域、コミュニティを再構築しなければならないだろう。

 この虹は、まさにサイモンとガーファンクルが歌った「明日
にかける橋」(Bridge over troubled water)でなければならない!

 少々長いが、「明日にかける橋」の歌詞を以下に示そう!


大川小学校近くの新北上大橋の上にかかる虹
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.21


  明日にかける橋  歌詞 ポールサイモン 1969年 日本語歌詞出典

  君が疲れ果て、途方にくれて 涙さえ浮かべていたら
  ボクがその涙を拭いてあげる

  ボクは、いつも君のそばにいるから 辛いとき、友達も見つからない時
  ボクが橋となって  激流の中に立ち尽くす 君を救い出してあげるよ

  ボクが激流に身を投げ出し 橋となって、立ち尽くす君を
  救い出してあげるよ

  君が挫折し、希望を失って 一人街を彷徨い
  つらく寂しい夕暮れを迎えた時は ボクが君を慰めてあげるよ

  暗闇が訪れ、苦しみに包まれた時も ボクは、必ず君の味方だよ

  激流に架かる橋のように この身を投げ出してあげる

  激流に架かる橋のように この身を投げ出してあげる

  さあ、立ち上がって!(無限の可能性を持つ少女)
  前に向かって歩き出すんだ!

  暗闇が去って、輝く時が来たんだ
  君の行く手には、いくつもの希望がある みんな輝いているだろう?

  友が必要な時は、振り返ってごらん いつも君の後ろにボクがいる

  激流に架かる橋のように 君の心の支えになってあげるよ

  そう、激流に架かる橋のように 君の心の支えになってあげる




石巻市大川小学校

 周知のように、釜谷地区には小学生70名以上亡くなった大川小学校がある。私たちが現地調査している最中にも父兄、地域住民、警察官らが次々にお参りにきていた。ざっと見渡したところ、小学校のすぐ横には100mほどの丘があり、すぐによじ登り避難すれば全員が無事であったであろうと推察できた。


出典:マピオン 

 以下はグーグルマップで見た大川小学校周辺の地図である。

 地形も見れるので見てほしい! 小学校のすぐ裏が小高い丘になっていることが分かる。ここに小学生らがすぐに登れば、全員無事であったと推察できる。

 マウスを使用することで拡大、縮小、移動などが自由に行えるとともに、衛星画像、通常の地図、3次元立体地図、地形図などを切り替えてみることができる。



グーグルマップで見た石巻市の大川小学校

 青山貞一の背後は大川小学校の裏山である。傾斜は急だがここによじ登れば全員助かったはずである!


青山貞一の背後は大川小学校の裏山。
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10  2011.11.21

 樹木を見るとこの地域で津波が遡上した高さはせいぜい10m〜12mのように見える。


大川小学校背後の裏山
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10  2011.11.21

 部分的にフェンスがあるが、その右側からよじ登れるスペースが見える!かえすがえすも残念無念である。


大川小学校背後の裏山
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10  2011.11.21

 大川小学校における津波の犠牲者数だが、確には全校児童108人のうち、68人が死亡、6人が行方不明となっている。


津波で被災し多くの児童と教職員が犠牲となった大川小学校
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.21


津波で被災し多くの児童と教職員が犠牲となった大川小学校
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10  2011.11.21

 11月21日夜、青山貞一は東京に帰宅した翌日、この小学生(一部中学生)が津波で亡くなった宮城県石巻市大川小学校だが、妻に大学まで乗用車で送ってもらったとき、現地の話したところ、何と妻の叔父(すでに他界しています)が、この大川小学校の校長先生をしていたとのことで、びっくりした。妻の実家は涌谷町といって石巻市の大川小学校から近くの町である。 



石巻市大川小学校の慰霊碑の前でお参りする池田こみち
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.21
 
 現地では次から次へ、弔問客が後を絶たなかった。下は、地域の警備に当たっている警察官らのお参りある。


地域の警備に当たっている警察官らのお参り
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.21

 下は動画で見る大川小学校とその周辺地域である。薄緑色の橋が北上川河口に架かっている。 


動画で見る大川小学校とその周辺地域
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S10 2011.11.21

 今回視察した大川小学校は石巻市北部北上地区、釜谷の北上川沿いに位置している。蕩々と流れる北上川河口流域には農地と住宅が広がっている。大川小学校は北上川に面して、背後の小高い里山に挟まれたモダンな佇まいの小学校だった。今はその無惨なすがたが痛々しい。


裏側から見た大川小学校。すぐそばに小高い丘があることが分かる
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S10 2011.11.21

 国道398号から新北上大橋を渡って釜谷地区・長面地区への道路がようやく復旧していた。小学校に近づいてみると、校門付近には、犠牲者の父兄によって慰霊碑(墓碑)が建てられており、たくさんのお花が供えられていた。次々と両親、祖父母と思われる年齢の方々、警察関係者などがお参り互いに慰め合っていた。墓碑には、犠牲となった小学生74名、教職員10名、中学生3名と刻まれていた。

 宮城県教育委員会の資料によれば、石巻市の被概数は群を抜いている。
公立幼稚園、学校の死者数は宮城県全体で362人(死者320、行方不明42)となっており、石巻市についてみると、死者163人、不明者19人、合計182人で、なんと全県の犠牲者の半分が石巻市に集中しているのである。その中で、この大川小学校の犠牲者は74名(不明を含む)と市内の犠牲者の41%を占めている。

東日本大震災に伴う公立学校等の被害状況等について(調査継続中)
宮城県教育委員会 平成23年11月11日(金)9時現在


 なぜ大川小学校でかくも多くの犠牲者を出すことになったのか、今後検証されることになると思うが、現地を訪れてその痛ましさには言葉を失う。最愛の子どもたちを亡くされたご家族のお気持ちを思うと、慰めの言葉もない。せめて、二度とこのようなことがないよう、学校の立地位置や建物の構造などの妥当性、避難・防災体制、教育などハード、ソフトの面から検証されることが是非とも必要だと感じた。

 以下はインターネットのブログからの転載。


母の迎えで助かった小6女子

・点呼を取っていた時、防災無線で大津波警報を聞いた。

 高さ50cmから始まり2m、5m、10m、狭い所はもっと高くなると聞こえそこで放送はプツッと切れた 津波がくるかもと思ったが、自分だけどこか行くわけにいかないので先生の指示待ち

・10分程で駆けつけた母は車のラジオで大津波警報を聞いていた。

 先生の腕をつかみ「6mだって。6,7分後にくるって。すぐ裏山に逃げて」と強く訴えたが先生に「落ち着いてお母さん」と言われた

津波から助かった4人中の小5男子

・母が男児と妹を迎えに来たが、保護者がかなり並んでおり一旦家に引き返し亡くなった
 
 列など無視していつも避難している山の上の公園に行けばよかった

・30分後教員に先導され高台を目指して歩いて避難を始めた直後、海側の様子を見に行った教頭が初めて迫り来る津波を確認

 「もう津波が来てるから早く移動して」と叫んだので小走りに 前方で堤防が決壊し波が10mくらい超えてきた、やばいと思い後ろの山に逃げた

・必死だったので急斜面の場所でも登れたが、雪も積もっており低学年は登れなかった。津波の勢いにボンッと高く跳ね上げられる友人を見た。振り返ると津波がメキメキと迫っていて飲み込まれ山の中腹で目覚めた

・父は「時間もあったし大丈夫だろう、これだけの地震で津波が来ないと思わないだろうからとっくに避難してる」と思っていた。

「あれだけの地震だったんだから、すぐ裏に山があるんだし登って欲しかった」


 下は大川小学校を含む周辺の全容である。裏山がすぐそばにあることも分かる。それを考えると居ても立ってもいられなくなる。


大川小学校を含む周辺の全容である。裏山がすぐそばにあることも分かる。
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S10 2011.11.21

 以下はWikipediaにおける大川小学校と東日本大震災・津波に関する記述である。



 2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う津波が地震発生後およそ50分経った15時36分頃[1]、三陸海岸・追波湾の湾奥にある新北上川(追波川)河口から約5kmの距離にある当校を襲い、校庭に避難していた児童108名中70名が死亡、4名が行方不明(9月23日現在)、教職員13名中、校内にいた11名のうち9名が死亡、1名が行方不明(2011年4月9日現在)となった。スクールバスの運転手も死亡している。

 地震直後、校舎は割れたガラスが散乱し、余震で倒壊する恐れもあり、学校南側の裏山は急斜面で足場が悪いことから(泥炭地で足が滑りやすいと判断されていた。津波が来た際にあわてて裏山に登り助かった児童も雪で足を滑らせながらもよじ登った。)、約200m西側にある周囲の堤防より小高くなっていた新北上大橋のたもと(三角地帯)を目指して移動し始めた。

 その直後、堤防を乗り越えた巨大な津波が児童の列を前方からのみ込んだ。列の後方にいた教諭と数人の児童は向きを変えて裏山を駆け上がるなどして、一部は助かった。その後のマスコミ取材で、裏山と三角地帯が避難先の候補となり、山へ逃げるという意見と、お年寄りもいて登りにくいから三角地帯だという意見が教職員の間で対立し、最終的に三角地帯を目ざしたことがわかってきている。なお、目ざした三角地帯も、津波に呑み込まれている。

 宮城県が2004年3月に策定した第3次地震被害想定調査による津波浸水域予測図では、津波は海岸から最大で3km程度内陸に入り、津波は来ないとされている大川小学校は避難所に指定されている。このため、地震の後、高齢者を含む近所の住民が避難してきていた。被災後の議論で石巻市教育委員会は、学校の危機管理マニュアルに津波を想定した2次避難先が明記されていなかった点で責任があると認め、父母らに謝罪している。

 難を逃れた児童22名は新学期より、同校より10km離れた石巻市立飯野川第一小学校へ通学している。大川小には、犠牲者を慰霊するために制作された母子像が設置され、2011年10月23日に除幕式が行われた。

出典:Wikipedia

 なお、下は5月19日時点での復旧作業中の大川小学校の敷地内での工事の状況である。


出典:Wikipedia


●参考データ(宮城県石巻市)

■宮城県石巻市の死者数と行方不明者数

市町村名 死者数A 行方不明者数B 死者+行方不明者数A+B=C
石巻市 3,154 849 4,003

■津波の高さ(推定値)

 今回現地調査した石巻市の大川小学校がある地区は、水門、道路、堤防、公共施設などの破壊状況、沿岸背後地の樹木、土壌、地層などへの影響などからTPから10m以上の津波高及び18m以上の遡上高が生じたと推定される。

 参考・東北地方太平洋沖地震津波情報
     東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループ 
     グラフィックスで見る日本沿岸の津波高
     津波現地調査結果/岩手県 
     過去の津波情報