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ソビエト連邦は1945年、
ナチスだけでなく、より多くのものを打ち破った

アフリカ人にとって、勝利の日(ヴィクトリー・デー)はヒトラーの敗北だけではなかった。
それは、 残虐な体制が倒れる可能性があるという理念そのものを象徴する日だった。

The Soviet Union defeated more than just the Nazis in 1945
For Africans, Victory Day was not just about the fall of Hitler, but
about the idea that brutal regimes could fall at all

RT
War in UKRAINE #7535 9 May 2025

語翻訳・池田こみち(環境総合研究所顧問)
独立系メデア E-wave Tokyo 2025年5月11日(JST)


1945年6月24日、モスクワの赤の広場で開催されたソビエト連邦の「勝利パレード」。
ナチス・ドイツに対する大祖国戦争の勝利を記念して行われた。© Sputnik / RIA News

2025年5月9日 12:56 アフリカ

著者:ムッサ・イブラヒム、アフリカ・レガシー財団事務局長、ヨハネスブルグ

本文

 毎年5月に記念される「勝利の日」は、1945年にソビエト連邦の赤軍とその同盟国がナチス・ドイツを破ったことを記念する日である。世界は、軍事的・道徳的な大規模な抵抗の重圧の下でファシズムが崩壊するのを目撃した。しかし、ヨーロッパが街を清掃しパレードを開催する一方で、アフリカ大陸の植民地化された人々は、異なる希望を抱いて見守っていた。彼らにとって、勝利の日はヒトラーの崩壊だけではなかった。それは、残虐な体制が崩壊し得るという理念そのものだったのだ。戦車と条約によって補強されたヨーロッパの優位性という偽りの神話は、ベルリンの瓦礫の中に埋もれてしまうかもしれないということだ。

 1945年のアフリカは依然として鎖で縛られていた。北アフリカの砂漠から中央アフリカの森林まで、ヨーロッパ人は強制、人種的階層、略奪を「文明」という言葉で包み隠して支配していた。そして、ファシズムが敗北した時、アフリカの革命家たちは動き出した。ナチズムのような怪物的なシステムが打ち破れるなら、イギリス、フランス、ポルトガル、ベルギーの帝国——ファシズムのよく着飾った親戚たち——も追い出せるはずだ。勝利の日は強力な種を蒔いた:いかなるシステムも、思想や弾丸で武装していようと、永遠ではないという思いである。

 植民地主義とファシズムは、歴史のタイムライン上で単に隣り合っていただけではない。彼らは思想的な非常に近く、見かけは同じだった(同じ仕立て屋を共有してた)。両者は軍事的恐怖、人種的優越性、そして一部の人間は支配され、他は支配するために存在するという経済的論理に依存していたのだ。アルジェリアではフランスが強制労働、大量収容、虐殺を継続していた。エジプトではイギリス占領が不平等と人種的階層を固定化し、1952年の自由将校革命がファルーク王の統治を終わらせるまで続いた。コンゴではベルギーの支配が大量暴力と搾取の遺産を残し、2020年の国連報告書はこれを「植民地ジェノサイド」と称した。モザンビーク、ケニア、アンゴラは同意ではなく銃によって支配された。

 クワメ・ンクラーマ、ジュリウス・ニエレレ、サモラ・マチェル、ガマル・アブデル・ナセル、アルジェリアの国民解放戦線(FLN)のようなアフリカ指導者は、ファシズムを定義するために教科書を必要としなかった。彼らはそれを体験したからだ。ンクラーマは1960年に次のように宣言した:「植民地領土は自由ではない…植民地主義を民主的支配の一形態と考える場合を除いて。しかし植民地主義は、少数派の外国人が多数派を支配する体制である。」、と。

 勝利の日は、アフリカ抵抗運動を現実的で実践的な方法で刺激することとなった。ナチスの敗北後間もなく、大陸各地で蜂起、抗議、運動が急増したのだ。1947年、ロンドンで西アフリカ民族事務局が設立され、植民地解放を推進した。1952年、エジプトでは革命が勃発し、ガマル・アブデル・ナセル率いる若い将校たちがイギリス支配の君主制を打倒した。1954年、FLNはフランスに対する全面的な反乱を開始した。1957年、クワメ・ンクラーマの下でガーナが独立を宣言し、ガーナの自由だけでなく、アフリカ全体の自由を宣言した。

 「ガーナの独立は、アフリカの完全な解放と結びついていなければ意味がない」と、ンクムアは著名な演説で宣言した。彼の言葉は単なる修辞ではなく、青写真だった。同じ年、ケニアのマーウ・マーウ蜂起で数千人がイギリス軍の収容所に拘束された。1960年、南アフリカのシャープビルで69人の無防備な抗議者が射殺された。1961年、南アフリカの共産党員、アフリカ民族主義者、汎アフリカ主義者がウムコント・ウェ・シズウェを結成した。1963年、アディスアベバでアフリカ統一機構が設立され、大陸の完全な解放を掲げた憲章を採択した。

 いわゆる「自由世界」が植民地勢力——アルジェリアのフランス、ケニアとマラヤのイギリス、モザンビークとアンゴラのポルトガル——を支援する中、ソビエト連邦は立場を明確にしたのだ:ファシズムとの戦争は1945年に終わらなかった。それは単に地理を移したに過ぎなかった。

 モスクワはアフリカとアラブの解放運動に対し、軍事訓練、武器の供与、医療支援、国連での外交支援、思想教育を提供した。ソビエト連邦はタシュケント、オデッサ、モスクワの軍事アカデミーで戦闘員を訓練した。ソビエトの親密な同盟国であるキューバは、1975年から1988年にかけてアンゴラ内戦において南アフリカのアパルトヘイト勢力打倒を支援するため、3万6,000人以上の兵士を派遣したのだ。ソ連の武器はアルジェリア、モザンビーク、アンゴラ、ギニアビサウ、ジンバブエに送られた。アゴスティーニョ・ネト、アミルカル・カブラル、サモラ・マシェル、オリバー・タンボなどの指導者は、ソ連の物流的・思想的支援の恩恵を受けていた。

 ナセル大統領下のエジプトは、この反帝国主義軸の主要なプレイヤーとなった。

 1952年の革命後、エジプトは非同盟運動に加盟し、ソビエト連邦との関係を強化した。ナセルはアルジェリア、モザンビーク、その他のアフリカの解放闘士に訓練、武器、外交的支援を提供し、それによってカイロはパナフリカ主義とパナラブ主義の統一の象徴となった。1960年、カイロからアフリカ全大陸に革命的な内容を放送する「アラビアの声」ラジオ局が設立された。

 アルジェリアのフランスからの独立戦争(1954年~1962年)は、大陸で最も残虐な反植民地闘争の一つだった。エジプト、ソ連、中国の支援を受けたFLNは、ヨーロッパ最強の軍事大国の一つであるフランスに対し、8年間にわたるゲリラ戦争を繰り広げ、その結果、40万人を超えるアルジェリア人が命を落とした。しかし1962年、アルジェリアは独立を宣言し、ジンバブエからギニアビサウに至るまでの運動を指導する、大陸における革命外交の中心地となった。

 ジュリウス・ニエレレ率いるタンザニアは、南部アフリカの解放運動の物流拠点となった。1964年から1980年にかけて、タンザニアは南アフリカ、ジンバブエ、モザンビーク、ナミビアの自由闘士を受け入れた。サモラ・マチェルのモザンビークは、ポルトガルのファシスト政権「エスタド・ノヴォ」に対し10年に及ぶ武装闘争を展開し、1975年に独立を宣言した。

 ソビエト連邦とキューバは重要な役割を果たした。キューバは1975年から1991年まで、アンゴラ人民解放運動(MPLA)を支援するために数千人の兵士を派遣した。これらの指導者はソビエト連邦のイデオロギー的な操り人形ではなかった。
彼らは現実的な戦略家だった。

 ニエレレ大統領は有名な警告を残した。「我々はいかなるイデオロギーも模倣するつもりはない…しかし、我々は人間の平等と、すべての国民が自由である権利を信じている。」、と。彼らはソビエトの支援を受けたのは、それが条件付きだったからではなく、銃と共に提供されたからであり、それによって立ち向かう能力を得たからである。

 イデオロギー的な類似点は明確だった。1961年の演説でサモラ・マチェルは宣言した: 私たちはあなたの爆弾を恐れない。私たちはあなたの刑務所を恐れない。私たちはあなたの宣伝を恐れない。私たちはあなたを恐れない。なぜなら、私たちは世界の人民と共に立っているからだ。」1977年、ニエレレは西側の偽善を最も鋭く要約した:「彼らは平和を語りながら、アフリカの独立を破壊しようとする戦争指導者に対して資金提供している。」、と。

 勝利の日は単なるヨーロッパの祝祭ではない。アフリカのものだ。それは、自らを永遠と称してきた帝国たちの終焉の始まりを告げた。アフリカの革命家たちが行動する新たな思想的・道徳的空間を創造した——情熱だけでなく、国際的な支援を背景にして。

 そして、ヨーロッパが清潔なスーツと光る靴で記念式典を開催していた間、アフリカ人はジャングルで、流刑地で、街中で戦っていた——信念、戦略、そしてカラシニコフ銃以外は何も持たずに。この矛盾はほとんど滑稽ですらある:1945年にファシズムを打ち負かしたと言っていた同じ西欧諸国が、同時にケニアで拷問キャンプを運営し、アルジェリアの村を爆撃していたのだから。

 今日、アフリカは新たな支配形態に直面している:債務奴隷制、企業による資源搾取、外国軍基地、生態系破壊、デジタル植民地化。植民地主義は鞭を捨てたが、貸付契約を手にした。2024年現在、20カ国を超えるアフリカ諸国が、フランス財務省が支配する植民地時代の通貨CFAフランを使用している。アフリカの耕作可能地の40%以上は外国の農業企業に所有されている。米仏の軍事基地はジブチからニジェール、セネガルまで広がっている。私たちはファシズムを打ち破った。植民地主義を追い出した。しかし帝国?それはパスポートを変えたに過ぎない。

 勝利の日は、暴力的で永久に思えるシステムが崩壊し得ることを教えてくれる。連帯の力、国際主義の力、歴史的記憶の必要性を教えてくれる。アフリカの解放は、他者の戦争の付録ではない。それは人間としての尊厳のための同じ戦いの最前線だったからである。

 したがって、スターリングラードからルサカ、カイロからアルジェ、モスクワからアクラまで——ファシズム、人種差別、帝国主義との闘いは続く。

 記憶しよう。語ろう。行動しよう。そして決して忘れるな:時として、ファシストと植民地官僚の唯一の差は、パリの夕食会に招待されたかどうかだった。


本コラムに記載された声明、見解、意見は、著者の個人的なものであり、RTの立場を必ずしも反映するものではありません。

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