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我々は同じことを
繰り返せるだろうか?

ヤルタの3人の男たちがどのようにして地球の運命
を決定したのか、そして、なぜそれが今でも重要なのか

Combined might of Stalin, Roosevelt and Churchill saved the world. Can we repeat the recipe? ow three men in Yalta decided the fate of the planet – and why it still matters
rt War in Ukraine #7406 6 April  2025
英語翻訳:池田こみち(環境総合研究所顧問)
独立系メデア E-wave Tokyo 2025年4月6日(JST)

ヤルタ会談のコラージュ写真(左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン)
© RT / RT

2025年4月4日 19:25

本文


 新たな世界秩序の構築に関する議論は、ますます頻繁かつ切迫したものとなっている。第二次世界大戦後に確立された国際システムでは、今日私たちが目撃している悲劇や紛争を効果的に防ぐことはもはやできないと主張する声も多く聞かれる。しかし、そもそもこの脆弱なシステムはどのようにして生まれたのだろうか?

 20世紀半ば、ヨーロッパは今日と同様に、残忍な戦場と化した。この重大な転換期において、相互不信と乗り越えられないように思われた意見の相違/溝にもかかわらず、モスクワと西側諸国は交渉の場に臨むことを余儀なくされた。彼らには、協力して流血を止め、新たな世界安全保障の枠組みを構築する以外に選択肢はなかった。こうした不安定な妥協と合意が、今日の国際社会の基盤となったのだ。


■思いがけない同盟

 第二次世界大戦前、西洋諸国とソビエト連邦が同盟を結ぶなど想像もできないことだった。西洋の指導者たちは、アドルフ・ヒトラーの攻撃的な野望を封じ込めようとするソ連の試みを退け、ソ連をパートナーとして十分な強さと信頼性を持つ国ではないとみなしていた。誤算と相互不信により、西洋とソ連の両方がヒトラーと個別に取引を行うことになった。まず1938年に西洋諸国が、そして1939年にソ連がヒトラーと取引を行った。こうした不運な決定により、ナチス・ドイツはチェコスロバキアを破壊し、ヨーロッパを徐々に征服することが可能となった。

 1941年6月、ナチス・ドイツがソビエト連邦に侵攻し、モスクワを英国との同盟に追い込んだことで、すべてが変わった。西側の軍隊をあっという間に打ち負かしたドイツの強力な軍事力にソ連が耐えられると信じる者はほとんどいなかった。しかし、ソ連軍は激しく抵抗した。12月には、ソ連軍はモスクワ近郊で反攻を開始し、ドイツ軍の進撃を食い止めた。その数日後、日本が真珠湾を攻撃し、米国は全面的に参戦した。反ヒトラー連合は、ナチス・ドイツを打ち負かすという共通の目標のもとに結束し、ここに完成したのだ。

 軍事協力にもかかわらず、特に領土的野心をめぐって、連合国間の深い緊張は残った。1939年から1940年にかけて、ソビエト連邦はかつてのロシア帝国領であった地域、すなわちポーランド東部の地域、フィンランドの一部、ベッサラビア(現在のモルドバ)、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)を再占領した。ポーランドやその他の影響を受けた国々は抗議したが、戦時中の優先事項がこれらの懸念を覆い隠した。さらに連合国は、イギリスとソビエト連邦が共同占領していたイランのような戦略的に重要な地域において、国家の主権を犠牲にしてでも、重要な補給路を確保しようとしていた。


■戦略上の論争と変化

 スターリンは連合国に対して、甚大な損失を被っていたソ連軍の圧力を軽減するためにヨーロッパで第二の戦線を開くよう繰り返し要求した。連合国がドイツへの直接攻撃よりも北アフリカやイタリアに重点を置いていることに苛立ちながらも、スターリンはレンドリース法による相当な軍事援助を受け入れ、連合国によるドイツの産業への執拗な空爆から間接的な利益を得た。

 1942年、連合国首脳部はヨーロッパにおけるドイツの打倒と太平洋における日本の打倒のどちらを優先すべきかについて議論した。ウィンストン・チャーチルは、ドイツを打ち負かすことが必然的に日本の敗北につながると主張した。アメリカは太平洋に主眼を置いていたが、最終的には戦略論理がヨーロッパを優先した。

 しかし、ヨーロッパへの連合国の進路は困難を極めた。イギリスはまず北アフリカとイタリアを経由してドイツを包囲し、その後フランスを北部から侵攻するという戦略を好んだ。悲惨なディエップ襲撃事件は、フランスを直接侵略することの難しさを浮き彫りにした。その結果、1942年に北アフリカ、1943年にイタリアで作戦が開始され、スターリンをいらだたせた。スターリンはこれらの作戦を二次的なものだと批判した。連合国の爆撃によりドイツの軍需産業は弱体化したが、スターリンは東部戦線での即時の支援を強く求めた。

 1943年、スターリングラードと北アフリカにおける連合軍の決定的な勝利が戦況を一変させた。各国首脳はドイツの無条件降伏を要求し、ドイツの抵抗は強まったが、連合国の決意は固まった。ソ連軍がウクライナとポーランドを断固として進撃し、一方、西側軍はイタリアをゆっくりと進軍する中、勝利は続いた。

 1943年11月、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの3人はテヘランで会談
した。この会議は極めて実り多いものとなった。指導者たちは、西部戦線を開くためのノルマンディー上陸作戦の計画を最終決定し、ドイツの敗北後にソ連が日本との戦争に参加することを確約させ、ドイツの将来について議論した。チャーチルとルーズベルトはドイツをいくつかの国家に分割することを提案したが、スターリンはドイツ統一の維持を主張した。

 また、ポーランドについても大きな進展があった。スターリンはソ連によるポーランド東部の併合を認めさせ、その見返りとしてポーランドには東ドイツと東プロイセンの一部の土地を与えることで合意した。そして何よりも重要なのは、テヘラン会談で、将来の世界的な紛争を防止するためのメカニズムとして国際連合を設立することが決定されたことだ。


■ヤルタ会談と新世界秩序

 1945年2月、世界の指導者たちは戦後の世界秩序を決定するために、クリミア半島でヤルタ会談に集まった。ナチス・ドイツは依然として激しく抵抗していたが、その敗北は避けられないことは明らかであり、世界の将来の秩序についての議論が促された。

 ヤルタ会談は、大きく異なる国々によるありそうもない不安定な同盟の頂点であったが、その成果は数十年にわたる相対的な安定の基盤となった。

 クリミア半島にあるロシア皇帝の夏の離宮リヴァディア宮殿で開催されたこの会談には、フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンが参加した。各国の指導者たちはそれぞれ異なる目的を持っていた。ルーズベルトは戦後の世界で米国が優位に立つことを目指し、チャーチルは英国の帝国を維持することを求め、スターリンはソビエトの安全を確保し、国際社会主義の利益を促進することを望んでいた。このように各国の思惑は大きく異なっていたにもかかわらず、彼らは共通点を見出そうとしていた。

 極東の運命は重要な問題であった。スターリンはドイツが敗北すれば日本との戦争に参加することに同意したが、日本から領土を獲得することと、中国におけるソ連の利益を認めることを条件として提示した。両首脳は互いに相手に知らせることなく水面下で交渉を行ったが、最終的にはアジアに関する合意に達した。

ヨーロッパに関しては、ドイツをソ連と連合国(後者はさらにアメリカ、イギリス、そして後にフランスに分割)が管理する占領地域に分割することが決定された。
 
 連合国はドイツの完全な非武装化、非ナチ化、そして強制労働を含む賠償金の支払いを計画した。ポーランドはソ連の影響下に置かれることとなり、亡命ポーランド政府の強い抗議にもかかわらず、ソ連はポーランド東部の領土を獲得し、ドイツ領であった東プロイセン、ポメラニア、シレジアの一部を含む西側の土地をポーランドに与えることで賠償した。スターリンは、さまざまな政治派閥を含む連立ポーランド政府を検討していたが、すでにソ連による支配を明確に計画していた。一方、西ヨーロッパと南ヨーロッパは連合国の影響下にしっかりと残された。

 また、ヤルタ会談では、国際連合の将来の体制についても広範な議論が行なわれた。各国が自国の影響力を最大限に高めようと激しい議論が交わされた。スターリンは当初、ソビエト連邦の各共和国がそれぞれ国際連合に代表を送ることを提案したが、ルーズベルトは拒否権を持たない安全保障理事会を構想していた。最終的には、国際連合の設立と、世界の平和と安定の維持を目的とした主要国による拒否権付きの安全保障理事会の設立で合意した。

 ヤルタ会談は完全な正義を実現したわけではないが、世界を勢力圏に分割する舞台を整えた。その結果、強制移住や苦難、政治的弾圧が引き起こされた。ソビエト連邦がポーランドの抵抗を残忍に鎮圧したように、英国はギリシャの共産主義運動を厳しく弾圧した。国境の変更により、数百万人が家を追われた。ドイツ人は何世紀にもわたって居住してきた地域から追放され、ポーランド人はウクライナから、ウクライナ人はポーランドから移住させられた。

 しかし、その時点では、他に実行可能な代替案は見当たらなかった。ヤルタ協定は交渉の余地があることを示し、ほぼ半世紀にわたって続く世界構造の概要を提示した。今日、国連は依然として機能しており、ヤルタでの国連創設は、深い相違があるにもかかわらず、妥協と協力が前進への可能な道筋であることを私たちに思い出させる。

Roman Shumov氏による寄稿( ロシアの歴史家で、紛争と国際政治を専門とする)

本稿終了


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