日本と中国の歴史をひも解くシリーズ 谷寿夫の後任として第6師団長に 就任した稲葉四郎 出典:林海青蛙/ 百度 2021年10月27日 接替谷寿夫出任日军第六师团长的稻叶四郎 中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授) 独立系メディア E-wave Tokyo 2021年11月19日 |
本文 稲葉四郎は生粋の騎兵隊員であり、谷寿夫とは陸軍大学校の同級生であった。 陸軍騎兵団長を務め、谷寿夫の後を継いで1937年12月に日本の第6師団長となり、第6師団を率いて徐州の戦い、武漢の戦い、第一次長沙の戦いなどに参加し、中国の戦場で多くの戦争犯罪を犯した。 稲葉四郎 稲葉四郎(1885~1948)は大阪出身で、大阪陸軍地方幼年学校、中央陸軍幼年学校を経て、1905年11月に陸軍士官学校第18騎兵科を卒業し、大阪兵で構成され大阪に駐屯していた第4師団の第4騎兵団に配属され、翌年6月に騎兵少尉に昇進した。 1909年12月25日、陸軍大学24期生として入学し、山田恵蔵、東映原研二、谷須保、柳川平助、山岡重久、牛島貞夫、飯田定、伊藤正樹、香月清、鈴木重保、酒井学、松浦順郎らに学び、1912年11月25日に卒業した。 稲葉四郎は大学卒業後、陸軍省軍務局に研修生として配属され、すぐに第4師団の第4騎兵航空団に戦隊長として復帰した。 日本のキャバルリー 1926年12月、稲葉四郎は騎兵監督部に異動し、フランスに留学した。 日本の騎兵隊は、フランスの騎兵隊を研究し、模倣して形成された。 1930年12月22日、稲葉四郎は再び騎兵監督部に異動し、翌年3月18日には教育部長として陸軍騎兵学校に赴任し、同年8月1日には校長を補佐して教務を執り行う役員となった。 1934年3月15日、彼は少将に昇進し、茂木健一郎に代わって第4騎兵旅団の司令官となった。この旅団は、第25騎兵航空団と第26騎兵航空団を配下に置き、関東軍の作戦順序の一部となっていた。 騎兵隊の視察をする稲葉氏 「七夕事件」の後、稲葉四郎は8月2日に中将に昇進し、笠井平十郎に代わって陸軍騎兵集団の長となった。 騎兵集団は1933年7月にハイラルに設立され、第1騎兵旅団と第4騎兵旅団の管轄下にあり、前者には第13騎兵団、第14騎兵団、機関銃、後者には第25騎兵団、第26騎兵団、機関銃があり、騎兵集団司令部には騎兵砲兵団、戦車団、機械化自動車歩兵旅団、補給団が管轄されていた。 日本の騎兵部隊 1937年12月28日、稲葉四郎は六大学の同級生である谷須夫の後を継いで第6師団長となり、参謀には石川小三郎少佐が就任した。 師団の4つの歩兵部隊は、第13歩兵隊の坪島文雄大佐、第47歩兵隊の岩崎民子大佐、第23歩兵隊の佐野トルタ大佐、第6騎兵隊の池田純宮大佐、第6野戦砲兵隊の古堅久蔵中佐、第6工兵隊の小川一郎大佐、第6補給隊の増田正義大佐、野戦病院を指揮していた。 日本の中国への侵攻 第六師団は南北に分かれて行われた徐州戦に参加した。 武漢攻略作戦を実行するために、日本の総司令部は1938年6月21日に日本第十一軍を編成し、関東軍第二師団長の岡村寧次中将を司令官に任命した。 1938年7月、稲葉は第6師団を率いて長江の北岸を進み、終始単独で攻撃し、徐元泉の第26軍団を撃破して合肥を占領し、李平賢の第11軍団を撃破して黄梅と広済を占領した。 日本の首領が武漢に入る 武漢の戦いの後、日中戦争は膠着状態に入った。 日本の第11軍は、1939年3月に初めて膠着状態を破り、南昌攻撃を開始した。稲葉四郎の第6師団は、非常に危険な地形である幕府山地を背にした秀水川の北岸に位置し、王陵司の第30軍集団が駐留している武寧方面に単独で攻撃した。 1939年3月21日、日本の第6師団は2つの方向から武寧を攻撃した。 爆撃と砲撃を受けたにもかかわらず、中国の守備隊は有利な地形を利用して攻撃に抵抗し、第6師団は中国の守備隊の陣地を突破することなく2日間戦い続けた。 日本軍による南昌の占領 1939年9月、稲葉四郎は第6師団を率いて「第一次長沙沖海戦」に参加し、奈良分隊、上村分隊の支援を受けて、関林正の第15軍が保持していた新川防衛線に道中から猛攻をかけ、第52軍が新川防衛線を、第73軍がミルオ川周辺を制圧して第2の防衛線を構築した。 稲葉四郎の第六師団、奈良分隊、上村分隊、合わせて5万人近い兵力で、関林正の第15軍の5つの軍団に挑んだ。 攻める日本軍 第一次長沙沖海戦の直後に帰国命令を受けた稲葉四郎は、1939年12月1日に川岸文三郎の後任として東部防衛軍司令官となり、翌年8月1日には東部軍司令官となって、東京に司令部を置き、東京地区の治安維持と防衛活動を担当した。 太平洋戦争開戦前夜の1941年12月2日、稲葉四郎は年齢を理由に予備役に編入された。 その数日後、日本海軍の連合艦隊が真珠湾を攻撃して太平洋戦争が勃発し、日本陸軍は全戦域で深刻な上級将兵不足に陥ったのである。 稲葉は1948年3月13日に死去したが、陸学の仲間であり、第6師団長の前任者である谷須夫は、1947年4月26日に南京夕焼台で銃殺刑に処された稲葉の姿を見て感動せずにはいられず、恐怖とショックの中で死去した可能性もないとは言えないが、稲葉は死去時62歳であった。 |