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韓国の
「三一独立運動」
「西大門刑務所」
について

青山貞一 Teiichi Aoyama(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年5月6
日 公開


ソウルの西大門刑務所を訪問した際に撮影した写真。
左から池田、斎藤、鷹取 撮影:青山貞一

 <無知程恐ろしいものはない>と西洋の哲学者で実践家は言ったが、日本人ほど世界史に無知な国民はいないと思う。
,,
 とりわけ、隣の韓国・朝鮮を歴史的に植民地支配し、創氏及び創地を改名させ、大日本帝国に併合した行為は、韓国・朝鮮の人々は、石にしっかりと刻んでいる。

 注)韓国併合とは
 1910年(明治43年)8月29日、「韓国併合ニ関スル条約」に基づき
 大日本帝国(日本)が大韓帝国を併合して統治下に置いた事実を
 指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦などとも表記される。厳密に
 は日本による朝鮮半島の統治は、大日本帝国がポツダム宣言に
 よる無条件降伏後も続いており、1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮
 総督府が降伏文書に調印するまで実質的には約35年間続いた。


 青山貞一は韓国に10回以上行っているが、ある時、研究室に韓国から留学していた大学院生と韓国に事例研究で韓国に行った際、是非、一度行ってみて欲しいと言われたのが、韓国の三一独立運動を記念した独立博物館だった。

 三・一運動は、1919年(大正8年)3月1日に日本統治(韓国併合)時代の朝鮮で発生した大日本帝国からの独立運動を指す。独立万歳運動や万歳事件、日本では、三・一事件、三・一独立運動とも呼ばれている。


三・一運動概要

 第一次世界大戦末期の1918年(大正7年)1月、米ウィルソンの「十四か条の平和原則」が発表され、これを受け、民族自決の意識が高まった李光洙ら留日朝鮮人学生たちが
東京府東京市神田区(現:東京都千代田区神田駿河台)のYMCA会館に結集し、「独立宣言書」を採択した(二・八宣言)ことが伏線となったとされる。

 これに呼応した朝鮮のキリスト教、仏教、天道教の各宗教指導者ら33名が、3月3日に予定された大韓帝国初代皇帝高宗(李太王)の葬儀に合わせ行動計画を定めたとされる。


経緯


3.1独立運動レリーフ タプコル公園
運動の引き金となった高宗の葬儀 民族代表33人
Source: WikimediaCommons  CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 3月1日午後、京城(現・ソウル)中心部のパゴダ公園(現・タプコル公園)に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げることを計画した。実際には仁寺洞の泰和館(テファグァン)に変更され、そこで宣言を朗読し万歳三唱をした。参加者は33名である。

 独立宣言書は崔南善(チェナムソン)によって起草され、1919年(大正8年)2月27日までに天道教直営の印刷所で2万1千枚を印刷し、その後、天道教とキリスト教の組織網を通じて朝鮮半島の13都市に配布したとされる。

 高宗の国葬が行われる3月3日に向けて独立運動が計画されるようになった。朴泳孝など高官への働きかけや学生に対する参加呼びかけも行った。


運動の引き金となった高宗の葬儀
Source: WikimediaCommons パブリック・ドメイン, リンクによる

独立宣言

 独立宣言は、以下の一文から始まっている。

 吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする。


タプコル公園にある独立宣言書のモニュメント
Source: WikimediaCommons CC 表示-継承 3.0, リンクによる

日本の対応

 これに対し韓国・朝鮮を植民地支配していた日本は憲兵や巡査、軍隊を増強し、一層の鎮圧強化を行った。

 犠牲数には立場によって一定ではないが、朴殷植の『韓国独立運動之血史』によれば、死者7509名、負傷者1万5849名、逮捕された者4万6303名、焼かれた家屋715戸、焼かれた教会47、焼かれた学校2に上るという。


運動の終息

 朝鮮総督府当局による武力による鎮圧の結果、運動は次第に終息していった。司法的には、逮捕・送検された被疑者12,668名、このうち3,789名が不起訴により釈放、6,417名が起訴され、残り1,151名は1919年5月8日時点調査中とある。

 1919年(大正8年)5月20日時点で一審判決が完了した被告人は4,026名。このうち有罪判決を受けたのは3,967名。死刑・無期懲役になった者、懲役15年以上の実刑になった者はいない。3年以上の懲役は80名であった。

 きっかけを作った宗教指導者らは、孫秉熙ら8名が懲役3年、崔南善ら6名が懲役2年6ヶ月の刑を受けた。


韓国独立記念館訪問

 青山貞一は韓国に10回以上行っているが、ある時、研究室に韓国から留学してきていた大学院生と韓国に事例研究で行った際、是非、一度行ってみて欲しいと言われたのが、韓国の三一独立運動を記念した国立独立博物館だった。


韓国独立記念館外観 訪問日 2006年3月25日
撮影:青山貞一


韓国独立記念館内部 訪問日 2006年3月25日
撮影:青山貞一 ニコンデジカメ


韓国独立記念館内部 訪問日 2006年3月25日
撮影:青山貞一 ニコン・デジカメ


西大門刑務所(서대문 형무소 韓国ソウル 訪問

 西大門刑務所は、朝鮮(韓国)の京城(ソウル)にあった刑務所。 以下は環境総合研究所の社内旅行でソウル訪問時、西大門刑務所を訪問した際に撮影した写真。左から池田、斎藤、鷹取。


環境総合研究所の社内旅行でソウル訪問時、西大門刑務所を
訪問した際に撮影した写真。左から池田、斎藤、鷹取 撮影:青山貞一


 1908年10月21日に、「京城監獄」の名称で、当時の朝鮮半島では初めての近代的刑務所として設立され、1912年9月3日に「西大門監獄」、1923年5月5日に「西大門刑務所」に名称が変更された。

 独立後は韓国政府に移管され、それに伴い名称が1945年11月21日に「ソウル刑務所」となり、1961年12月23日に「ソウル矯導所」、1967年7月7日には「ソウル拘置所」に変更された。

 以下は、ソウル市内にある大日本帝国が植民地支配する韓国・朝鮮の人々を治安維持法によって政治犯で大量に逮捕し、収容した西大門政務所。青山は5回訪問している。ここには、刑務所以外に「らい患者収容棟」、各種の拷問室、処刑室などがある。

 日本の総理としては、2001年10月小泉首相が初めて植民地時代に独立運動家らが投獄された刑務所跡地にある西大門独立公園を訪れ、「心からの反省とおわび」を記者団に語り、色々な展示や施設や拷問のあとを見学した。後に、「これは総理大臣としてというよりもむしろ、一人の政治家として、一人の人間として、このような苦痛と犠牲を強いられた方々の無念の気持ち、これを忘れてはいけないなと思いました。」とその時の気持ちを記録している。
出典:https://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/s_koi/korea0110/sankou1.html

 また、鳩山元首相は2015年8月に訪韓し、ソウル西大門刑務所の追悼碑の前で正座して黙祷し、「日本が韓国を植民統治していた時代に、独立運動家ら多くが収容され、拷問を受け、命まで失った事実を思い、心から申し訳なく、おわびしたい」と述べた。
出典:https://s.japanese.joins.com/JArticle/204381?sectcode=A10&servcode=A00

 青山が最初に訪問した際、ソウル大学日本語学科の女学生が案内してくれた。

 当日は好天だったが、おりしも極寒の二月、外気温はマイナス五度以下。相当な防寒着のいでたちだったが何しろ寒い。


 以下は青山が最初に訪問後に書いたブログの転載。 バスを降りると直前に歴史館の入り口があった。


西大門刑務所歴史館入り口

撮影:青山貞一


(展示写真を撮影)
撮影:青山貞一

 以下は西大門刑務所歴史館の敷地内からみた建造物の外観である。


西大門刑務所外観
 撮影:青山貞一


西大門刑務所外観 撮影:青山貞一

 刑務所歴史館は、以下の案内図のようにかなり広い。先の入り口は、①に対応する。入ってすぐ左に以下の総合案内掲示板がある。さらにまっすぐ進むと歴史展示館があり、写真展示やビデオプロジェクターによる動画と音声による説明があった。


案内板出典:http://nagoyajiren.at.infoseek.co.jp/prison.html

 日本統治下の実際の西大門刑務所は、上記案内板に示される敷地、施設よりもはるかに規模は大きいそうだ。

 以下は日本統治下の西大門刑務所の全容。獄舎として残っているのは、④、⑤、⑥であり、全体のごく一部。

 歴史館では、地下を含めすべて展示物の閲覧が可能である。
 
元の西大門刑務所の全容。現在は一部を保存し、他は移設している。

 刑務所跡には2002年に小泉首相や日本の日韓議員団数十名が訪問したとハンナラ党本部で伺ったが、それにしても①、②....と進むにつれ、なぜかとめどもなく涙がこぼれ落ちてきた。小泉首相や議員団は、これらの展示物をどういう気持ちで見たのであろうか?

 当日は、ソウル大学の学生らボランティアが私たちの通訳をかね何人か参加してくれた。そのうちのひとりの女子学生が私のところに寄ってきて、日本語でいろいろ話し掛けてきた。いわく「あなたのようにここで涙を流す日本人は少ない」と。

 それがきっかけとなり、その女子学生が個人的な通訳となってくれ、歴史館のハングル文字表記の展示物を中心に日本語で通訳し説明をしてくれた。

 獄舎はもともとあった多くの棟の一部だけを保存していると言うが、その獄舎には独房タイプ、数畳の小さな部屋に多くの人々が収容されたタイプなど、さまざまなものがある。

 いずれも日本による韓国の統治、韓国併合、創氏改名などに反抗し独立運動を行ったひとびとが投獄されたという。この種の刑務所は、ソウルだけでなく、朝鮮半島の各地につくられた。歴史館には全国各地にあった刑務所の位置も掲示されていた。

 そまつでろくに暖房もなく狭い獄舎に押し込められた多くの韓国人が、冬のソウルの極寒はそれだけで耐えられない拷問と言える。


西大門刑務所牢獄跡
 撮影:青山貞一


西大門刑務所牢獄跡 撮影:青山貞一

牢獄の一部 多くの牢獄は中に入り体験が可能
撮影:青山貞一

 西大門刑務所歴史館でもっとも、私たちの目を引き付けたのは、いうまでもなく日本人が韓国、朝鮮人に行ったとされる各種の拷問の現場を再現したという模型の展示である。以下にそのうちのいくつかを例示するが、拷問現場の再現模型は直視に耐えないものが多い。


拷問再現模型 (展示模型を撮影)
 撮影:青山貞一


 型拘禁具による拷問模型
(展示物を撮影) 撮影:青山貞一

実物大の棺型拘禁具模型は、独立記念館にもあり、
見学者が実体験できるようになっている


拷問再現模型
(展示模型を撮影)
撮影:青山貞一


義兵の見せしめ公開処刑 (展示写真を撮影)

撮影:青山貞一

 私にはこれら歴史館にある各種の建造物やそこで行われた韓国のひとびとに行われたさまざまな拷問、残虐行為の「真贋」のほどは分からない。

 しかし、今回(2006年3月)の旅で訪れた韓国独立記念館にある多くの展示物を歴史を追って見ると、日本が過去、朝鮮半島でしてきたことが、一部の人々が言うような韓国側のでっち上げであるとか、捏造であると言った批判では、かたずけられないものを強く感じた。

 以下の写真は案内板⑦ハンセン氏病などの患者の隔離病棟と、その病棟で死んだ患者を運んだ地下通路の入り口である。


ハンセン氏隔離病棟と説明板 撮影:青山貞一


隔離病で死んだ者を運んだ地下通路入り口 撮影:青山貞一

 さらに以下は、案内板⑧の刑務所内にある死刑執行室(首吊り方式)とその執行を監視する監視場である。


監獄内死刑執行室跡
 (展示物を撮影)
撮影:青山貞一


監獄内死刑執行監視室跡(展示物を撮影)   撮影:青山貞一

 さらに下の写真は死刑執行後、地下から死体を引き出す出口である。


執行後死体引出し口
  撮影:青山貞一

 上の引出し口から引っ張り出された死体は、以下の地下通路でトンネルを通して運び出される。そして近くの山中に捨てられたという。地下通路は日本によって終戦直前埋められたが、戦後発掘されたと。


地下トンネル入り口
  撮影:青山貞一


監獄敷地内慰霊碑 撮影:青山貞一

 
上の写真は小泉首相や日韓議員団もも参拝したと言う犠牲者慰霊碑である。彼らはどういう気持ちで、この西大門刑務所の施設を見回ったのであろうか?

 ところでこの西大門刑務所は、日本が韓国を占領統治していた1910年から1945年の時期に、韓国で独立運動にかかわったひとびとなどを逮捕、拘留するために使われものとされている。

  刑務所は日本が武力で韓国を占領した1907年に第一次の刑務所が作られ、1908年10月21日に竣工、当初は京城(現、ソウル)監獄と日本側によってなづけられたと言う。

 この刑務所は、その後、ソウル刑務所'、ソウル拘置所など、名称が変わり、1987年11月15日になって京畿道の儀旺市に移設。1988年にもともと監獄があった場所に、西大門独立公園を造成するなかで一部の建造物(第7棟の各監獄等)を西大門刑務所歴史館用に保存する事業に着手し、1992年8月15日(独立記念館のオープニングも8月15日)、第47回の光復節記念行事の開催にあたり歴史館を開設している。

 韓国にある刑務所だが、当時日本側が設計、施工、使用しただけあり、構造や配置はどこか網走刑務所など日本の刑務所に似ている。

 第7棟の第10、11、12号の各獄舎及び死刑場は、1988年2月20日に韓国の史跡、第324号に指定され、さらに第9号、第13号獄舎、本館、ハンセン病者収容棟、秘密棟、刑務所塀及び見張り台なども保存された。

 この西大門刑務所は、韓国のひとびとにとって、いわば日本統治の近現代史における歴史的な痛みと悲しみを想起させる、敢えて言えば石に刻む場としてなっているのだと思われた。日本の為政者の多くがその逆、すなわち水に流すことに努力(?)してきたのと対照的である。

.........

 ソウル大学の女子学生が、別れ際に、「もし、先生が日本と韓国の近代,現代史に関心があるなら、ぜひ一度、韓国独立記念館に行ったらどうか」とすすめてくれた。「もし、行くなら通訳をしたい」と申し出てもくれた。

 実は私自身、朝鮮半島と日本との歴史にとりわけ詳しいわけでもない。

 ただ、19世紀末から20世紀初頭に日本が征韓論の名のもとに兵を送り韓国統監府を置き、さらにはいわゆる日帝が朝鮮半島を統治する日本統治時代における日韓併合、創氏改名、日本への強制連行そして従軍慰安婦 など一連の事象について、日本人の視座ではなく、韓国人の視座から一度、史実を見てみたいと言う思いがあった。

 真冬で寒く、話を聞いている間、涙が止まらなかったことを今でも覚えている。

 以下は終戦後、西大門刑務所を出所した政治犯達の写真である。


西大門刑務所を出所した政治犯達
Source: WikimediaCommons パブリック・ドメイン, リンクによる