<関連重要情報>

 以下は、フランスの公共放送「フランス3」テレビチャンネルで2001年10月18日に放映された番組、『断片からの確信』("Pieces a Conviction")からの抜粋である。この番組は、アフガニスタンの状況をつぶさに考察したものである。監督は、有名なフランスのジャーナリスト、Pierre Abramovici。以下は、「アフガンの罠」という番組中の26分の部分から抜き出したものである。調査、脚本執筆、プロデュースはAbramovic。
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タリバンは国連の制裁下にあった。タリバンは、ビンラディンを無条件に支援しているために、国際社会の認知を得られていないのだ。タリバンを支援するのは、パキスタン、サウジアラビア、クウェートだけ。公には、タリバンと関係を持ちたがる者はいなかったが、水面下ではアフガン問題を解決するために真剣な努力が進められていた。可能であればタリバンとともに、そして、必要とあらば、タリバン抜きで、である。最後に、ある男がある計画を練り上げた。すべての当事者が、これならだれもが満足するだろうと望みを託せる計画であった。

Franscesc Vendrell は国連のアフガン特使であった。彼は、内戦をやめさせ、タリバンの対立に対して、軍事的ではなく政治的な代替策を提供し、タリバン政権の孤立に終止符を打つことができるような、交渉の可能性のある和解策を作り出した。そして、2000年はじめから、数多くの会合が開かれるようになった。

ストーリーのこの部分――かつては秘密だった部分――が展開したのはベルリンであった。外交用語でいう理解の「第2レベル」での会合に、数ヶ国が参加した。ここには、それぞれの政府に極めて近い筋の個人が、公式の権限なしに関わった。

当初から、主要なプレーヤーは、米国からの4名の代表、ロシアからの4名、パキスタンからの4名、そして、イランからの2名か3名であった。2000年11月中旬に、第一回の会合が、ベルリンにある、外界から隔絶されているが居心地のよいパレス・ホテルで開かれた。この詳細の手はずを整えたのは、ドイツの外交団であり、彼らがセキュリティ面も担当した。

参加者は、2001年3月に、ふたたび秘密裏にベルリンで会合を開いた。膠着状況を打破するために、タリバンに提出できるような政治的な提案を作り出そうというのだ。

Naiz Naikは、パキスタンの元外務大臣である。機密任務のベテランだ。

Naik
タリバンの態度が変わるのを待つのではなく、外界に対する彼らのかたくなな態度を変えられるかもしれないという期待を持って、何かすぐにタリバンに提供しよう、というのが我々の考えだった。タリバン政府は、その有権者を広げる代わりに(In return for broadening the constituency of their government)、国を再建するための技術援助や財政援助をたくさん受け取ることになる。

具体的な金額は明らかにされなかったが、この線に沿って2年、3年と進めれば、膨大な国際支援が得られることになるはずだった。まず、平和と安定を取り戻し、それから、(カスピ海の石油)パイプラインを敷設できるだろう、という考えだった。我々が、タリバンに対し、その政府を広げるよう説得できれば、そのパイプラインのコミッション料(土地の使用料かな?)として何十億ドルもの金をタリバン政府にもたらすことになり、その資金を使って、彼らは自国の天然資源開発を始めることができる。

3度目の会合は、7月17〜21日にやはりベルリンで開かれた。交渉の開始が望まれていた。タリバンと、Massoudの北部連盟の両者とも招かれていた。残念ながら、この良かれと思って計画された会合は水泡に帰した。というのも、タリバンが会合への参加を拒否したからである。

Naik
私はこの件について、イスラマバードにいるタリバンの大使と個人的に話し合い、ベルリンに来るよう、説得するという望みを託して、カンダハールとカブールに使節を送った。彼らはまだどうするか決めていなかったので、我々は、「ぜひ来るべきだ。アメリカ、イラン、パキスタンという重要なプレーヤーにあって、国際社会の重要なメンバーに自分たちの考えを伝えるまたとないチャンスだ」と促がした。そして、もちろん、ドイツ政府もいるので、欧州連合の代表者にも会うことができ、より幅広い国際社会にアクセスできるではないか、と。しかし残念なことに、彼らは来なかった。

タリバンが拒否した主な理由は、Vendrell だった。彼は国連の代表であり、国連はタリバンに対する国際制裁の責任者である。さらに、彼らが参加することになれば、タリバンは関係を断交して以来長らく懸案だった事項についても話し合わなくてはならなくなる。

Naik
そして、このとき初めて、アメリカ人、特に(元)大使の(トム)サイモンスが、タリバンが適切に振舞わない場合には、そして、パキスタンがタリバンに責任ある振る舞いをさせることができなければ、アメリカはアフガニスタンに対して、明白なる行動という、ふさわしいオプションを考えうる、といった。「明白なる行動」という言葉が使われた。

そこで私は彼に尋ねた。「大使殿、1998年にあなたたちは巡航ミサイルを撃ちました。そして、オサマ・ビンラディンを捕まえることはできなかった。でもミサイルのいくつかは、私たちの上に落ちてきたのですよ」すると彼はこういった。「そうだ。あれが最初だったのだ。しかし今回は、我々が明白なる行動を取ることを決めれば、もっとずっとアフガニスタンに近いところからミサイルを撃つことになる」。

「しかし」と私はいった。「パキスタンということですか? パキスタンは、いかなる状況下であっても、軍事基地を置くことは許可しないでしょう・・・」

「いや、そうではない」と彼はいった。「我々はすでに、タジキスタンに基地があるのだ。アメリカの軍事アドバイザーがもうそこにいる。17000人のロシア兵もいる。それから、ウズベキスタンにも我々の軍事基地があるのだ」。

彼はどこにあるかはいわなかった。しかし、タシケントの近くに軍用飛行場があることはよく知られていた。そこで我々は帰国するとすぐに、これらの出来事を政府と、外務大臣に報告した。そして、ISI(パキスタンの諜報機関)にも知らせた。

以上がアメリカ側のいったことである。彼らは詳細は話さなかったが、アメリカ人たちが、――9月11日よりもずっとまえ、ニューヨークとワシントンでの恐ろしいテロ事件のずっとまえに――、タリバンに対して軍事行動を取ることを念頭のどこかに置いていたことを最初に示すものだった。彼らの第一の目的は、いうまでもなく、オサマ・ビンラディンを殺すか捕まえることであった。

Simmons
これは我々が話したことを歪め、疑わしく誇張している。我々が話したのは、我々はいまなお、前の年にアデンで攻撃目標となったUSSColeにまつわる証拠を調査している、ということだった。そして、もしビンラディンがその背後にいるのであれば、何らかの軍事的報復に頼ることもできるだろうと決めた。しかし、パキスタン代表団のメンバーは、イスラマバードに戻ると「侵略が進行中!」と報告したのだ。

Naik
ここ、非公式の「第2レベル」会合では、何かを発言して、それから、「これは個人的な意見に過ぎなかった」などといって、自分の発言を否定することもできる。しかし、個人的には、そうだ、その発言には国務省の後ろ盾があった、と思っている。

空想か? 誤解か? だれが知っているのか?
いずれにせよ、Naiz Naikが明確に述べたように、パキスタンの諜報機関は、この会合の詳細を知っており、したがって、タリバンとビンラディンも同様に知っていたのだった。

7月末、8月はじめには、パキスタンの首都とその軍事コミュニティに、ひどくばかげた噂がかけめぐった。戦争の噂である。真か偽か。しかし、「非公式」の話し合いにしか立脚していないこれらの出来事を、世界の他国は無視した。

ベルリンでの取り組みの失敗が、9月11日につながる要因の一つだったのだろうか? その答えを知っているのは、オサマ・ビンラディンだけである。そして今日、それはもう遅すぎる答えである。アフガンの罠は、国際社会の上に結ばれてしまったからだ。